死を越えて生きる
2025年5月11日
ネヘミヤ2:1~18、ヨハネによる福音書11:17~27
関 伸子牧師
人生を考えるとき、わたしたちが避けて通れない最大の課題が死であると思います。この国では「死んだらおしまい」と言われて育つ人が多いのではないでしょうか。しかし、そのような人生観では決して承諾できない人々もいます。ヨハネによる福音書第11章は、そういう人々に語りかけ、訴えかける箇所です。
事の起こりは、イエスの友人ラザロの死でした。主イエスはベタニアに到着されました。 イエスがこの病気は死ぬほどのものではないと言われたにもかかわらず、ラザロは死んで墓に葬られ、すでに四日を経過していました。主がここに戻るのは命がけのことです。弟子たちは恐れますが、主は「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ」(9節)と、御自分の働きは光のもとでなされることを思い出させます。
イエスが来たと聞いてマルタは迎えに行き、マリアは「家の中に座っていた」。ルカによる福音書第10章のマルタとマリアの物語と同じく、ここでも、二人は対照的に描かれています。マルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)と主イエスに訴えるように言います。これは、マルタが兄弟ラザロの蘇生を期待していた事実を示しているのでしょうか。イエスはぐずぐずしている、神はいざという時に働いてくださらない。少しうらみがましい言葉のようにも聞こえます。マルタは、まさしくマルタの家で、主イエスが不思議な仕方で多くの病人をいやしてこられたのを、何度も見てきたことでしょう。「ラザロが生きていさえすれば、どんな瀕死の病気でもいやしてくださる」と思ったに違いありません。
けれどもマルタの信仰はそこにとどまるものではありませんでした。マルタの言葉には、その後があります。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(22節)。頭では少なくとも、そう理解しているのでしょう。信仰の論理からすれば、そうなのです。私たちにも同じようなことがあるのではないでしょうか。「神様は何でもできる。イエス・キリストであれば、何でもできる」。しかし実際には、それが何を意味するのかわかっていないのかもしれません。
主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われても、マルタの心は動かず、通り一遍の返事をします。「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」(24節)。当時、ファリサイ派の人々はそう信じていました。ちなみにサドカイ派の人々は、それと対立して「復活はない」と言っていました。マルタはファリサイ派の教えに従って、「自分もそれは信じています」と言ったのでしょう。この一般的な復活信仰への言及や、「主よ、もう臭います。(葬られて)四日もたっていますから」(39節)という言葉からすると、目の前での兄弟の生き返りを期待していたのではないようです。ただし、復活であり、命であるイエスを信じる者は、死んでも生きるということを信じるかと問われて、マルタが口にした「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」(27節)は、マルタの理解がどうであったにしても、主イエスは、すべての条件を造ってくださることを信じることです。主は終わったところから始めます。イエス・キリストは死んで葬られ、そして三日後に復活されました。復活の出来事は、終わりが終わりではなくなることがあり得るということを私たちに語り続けています。
主イエスは、マルタの言葉を否定せず、続けてこう語られました。「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25~26節)。これは聖書の中でも有名な言葉のひとつです。このラザロの復活物語全体のクライマックスは、この言葉にあります。「私を信じる者は、死んでも生きる」ということと、「生きていて私を信じる者はいつまでも死なない」ということ。これは、同じことを裏表で語っています。命の源であるイエス・キリストにつながる時に、死は死ではないのです。
「決して死ぬことはない」というのは、肉体のいのちがいつまでも生きるということではありません。死を突き破る。死が死でなくなる。そのことを、主イエスはこのように重ねた言葉で丁寧に私たちに教えてくださるのです。ちょうどハイデルベルグ信仰問答が、わたしたちが生きているときにも死ぬときにも、主イエス・キリストのものとして、主によって贖われている限り、いつも主と共にある限り、甦りのいのちに生きる限り、慰めの中にあると語っているのと同じことです。
人間にとって絶望と悲しみをもたらすものでしかない死は、イエスにとっては神の栄光を現わす出来事です。そこで主はラザロを墓から呼び出します。
私たちはあまりにも簡単にあきらめてはいないでしょうか。期待することをやめていないでしょうか。どうせもう、どうしようもないのだと。それは復活のキリストを信じる者の生き方ではありません。私たちが死の向こう側にある復活を信じることは、日々、すべての瞬間に新たにされ続けることを信じることの延長にあるのです。
「あなたはこのことを信じますか」とイエス・キリストは今、マルタに問われます。そして、わたしたちにも問われます。愛そのものである主イエスが、わたしが甦りだと、死の中にある兄弟をのぞき込むようにじっと見ながら、ここで「あなたはこれを信じるか」と問われるのです。「信じます」と言う以外に答えようがないのです。あなたは神の御手の中にあります。その時、キリストがあなたの中に生きつづけるでしょう。祈ります。