カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 小さな者を愛される主イエス

    2021年9月5日
    エゼキエル37:15~28、マタイ118:10~20
    関 伸子牧師

     マタイによる福音書第18章の10節から14節で「一匹の迷い出た羊」のたとえとして、主イエスが「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」(10節)と語り始める。その結びで「そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない」(14節)と述べます。そして15節以降では、罪を犯した「きょうだい(教会員)」に対して取るべき態度が教えられますけれども、その教えは14節の「父の御心」に沿って理解されるべきでしょう。

     主イエスは、ここでひとつのたとえ話をされました。百匹の羊のうち一匹が失われそうになる。今日の管理社会では、そこから迷い出てゆく子どもがあります。迷わない九十九匹が社会の優等生のように見られますが、本当にそうでしょうか。このような話を聞いたことがあります。ある保育園の先生のところに親の手に負えない子どもが連れて来られた。先生は、その子に幼児の面倒をみさせたところ、誰よりもよく世話をしたということです。自分がいやな扱いを受けていた者は、どうしたら子どもがいやがるか、誰よりも良く知っていたのです。

     神さまは、この一匹を受け入れ、他の九十九匹以上に喜ばれる。一匹を求めるのは一匹への愛なのです。迷い出た一人が、神の前にかけがえのない一匹です。主イエスも言われました。「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのです」(25:40)と。小さい人々は、自分たちに伝える天使たちを通して、自分たちが滅びることは父なる神の思いではないということを教えてもらっており、そのような者として神に大切に見守られている存在なのである。

     主イエスはこれに続いて「きょうだいの忠告」の話をなさる。罪を犯した「きょうだい」は「迷い出た羊」です。そのような者には「小さな者」を心にかける神の思いを知らせなければなりません。忠告は「兄弟を得る」ために行われます。14節の「失われる」と「得る」は対の概念です。一度の忠告が兄弟に聞き入れられなかったとしても、「兄弟を得る」ためには、繰り返し忠告する必要があります。まず一人で、次いで一人か二人の兄弟と一緒に、そして最後に教会という公の場で忠告するようにと述べるのは、その目的が非難や中傷にではなく、兄弟を「得る」ことにあるからです。

     雨宮慧神父が書かれたこの箇所解説にはこう記されていました。「兄弟の誤りを率直に戒めるようにという勧めはレビ記題19章17節に見られ、クムラン宗団の規則やダマスコ文書にもありますが、『兄弟を得る』ためというような積極的な動機はユダヤ教にはうかがえません」。これらの規則を自分で読んで確認してはいませんが、そうだと思います。「忠告する」と訳された語は「光にさらす」という意味を持ちます。忠告とは、滅びを望まない神の光に照らし、相手の心を神の思いへと向けさせることです。それを聞き入れない者にも辛抱強く最後まで寄り添うようにと主イエスは命じます。しかし、教会にも聞き従わないならば、彼を「異邦人か徴税人」と同様に、神に従わない者と見なすことが許されます。

     すべてをつなぎ、また解くという教会の権威は、人間の力によるのではなく、教会の中心にいる主イエスと、天の父に由来します。地上で教会が一致して願うことはすべて天の父によって実現されます。教会は「二人また三人がわたしの名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(20節)とあるように、主イエスの名が中心に置かれた集いです。主イエスは「インマヌエル(神は我々と共に)」(1:23、28:20)として私たちの真ん中にいます。

     最近読んだ澤田和夫神父の『詩編からの祈り』のなかで、「主」が「いるよ、いるの主」と訳されていました。主エジプト記第3章14節「私はいる、という者である」は「わたしは常にあなたと共にいる」の意味だと言えますが、澤田神父はそれをお考えになって、「いるよ、いるの主」と訳されたのだと思います。私たちがどこにいても「いるよ、ここにいるよ」と呼びかける神の呼びかけが聞き取れなくなると、母親の姿を見失った子どものように落ち着きをなくします。この説教の後、「主はぶどうの幹、われらその枝」と歌う、讃美歌21の393番「こころを一つに」は、ヘルンフート共同体を主導したツィンツェンドルフが、多様な教派の出身者と共に新しい共同体を形成していく苦労のなかで書いた賛美歌です。そこには教会員一人ひとりが直接、キリストと結びつかなければならないというメッセージが歌われています。私たちの教会は、なお祈り続けなければならないと思います。なお問い続けなければならないと思います。そして、自分の罪を誠実に言い表す言葉を持ち、お互いの罪のために祈ることを求めたい。主がここに豊かに与えてくださる恵みの教会になることを、祈りの課題としたいと思います。お祈りをいたします。