カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 真理の声に向かって

    2021年12月12日
    イザヤ書40:1~11、マルコによる福音書1:1~11
    関 伸子牧師

     「神の子イエス・キリストの福音の初め」。マルコによる福音書はこの書き出しで「私は使者を遣わします。彼は私の前に道を整える」というマラキ書の第3章1節に出てくる言葉「わたしは使いをあなたの前に遣わし」と、イスラエルの民の歴史を語り始める出エジプト記第23章20節の複合引用とイザヤ書第40章3節を用います。この複合引用には三人の人物が登場します。これが誰であるかを文脈から探ると、「私」とは神であり、「使者」とは洗礼者ヨハネでしょう。そうであるなら、もうひとりの人物「あなた」は1節の神の子イエス・キリストのはずです。

     「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備えよ その道筋をまっすぐにせよ』」(3節)。これは旧約聖書の中央にあるイザヤ書第40章3節、第二イザヤと呼ばれる部分の最初の言葉です。第二イザヤはイスラエルの歴史のなかでも最も悲惨的な時代であったバビロニア捕囚の時代に記されました。「荒れ野」とは、バビロンの地のことであり、また故郷イスラエルと自分たちとを隔てる荒れ野のことでしょう。バビロンに捕らえられている人びとが望郷の思いに駆られ、帰国を切望しながら、故国への遥かな道のり、そこに横たわる荒れ野を見るのです。

     4節から8節は地上のヨハネの活動を述べています。ヨハネは主イエスの宣教を準備するための宣教をします。荒れ野でいのちのしるしとして洗礼を施し、悔い改めを呼び掛けます。この箇所は、神の歴史介入を迎える緊張と喜びに満ちています。その喜びに満ちた緊張の中で、ヨハネは主イエスの道を準備します。

     先ほどイザヤ書第40章1節から11節をお読みしました。預言者イザヤは、なんという時代に召命を受けたことでしょう。バビロン捕囚の時代を経て、精神が疲弊しきった人々に向かって語らなければなりませんでした。主なる神を信じて生きるなど、過去のおとぎ話にすぎない・・・・・・そのような心の砂漠が目の前にあります。「呼びかけよ」という声が預言者自身に迫ってくる。虚無に支配された心に、いったい何と呼びかけたらよいのだろう。預言者が聞き取った言葉はこうです。「草は枯れ、花はしぼむが 私たちの神の言葉はとこしえに立つ」。

     バビロンとエルサレムの間は荒れ野ですから、普通には、ユーフラテス川沿いに北上する道を用います。しかし、民を慰めようとする神は荒れ野に広い道を通し、まっすぐ西進させ、一刻も早い帰国を実現させようと考えます。群れを導く牧者が先頭に立ち、しんがりとなるように、神も捕囚民の先頭に立ち、後ろに回って、彼らを連れ帰ります。こうして、エルサレムを憐れみ、深く息をついた神の「慰め」が現実となります。第二イザヤの目には、その日の到来がくっきりと映し出されています。

     神が来られる。私たちのところに来られる。それが始まる。洗礼者ヨハネはその先駆けです。ヨハネは言いました。「私よりも力のある方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。私が水であなたがたに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(7b-8節)。「力のある」というのは、「聖霊でバプテスマを授かる」方です。ヨハネは「その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言いました。靴のひもを解く務めを与えられた奴隷にも値しないのです。主イエスは神と等しい神の子なのですから比べようがありません。主イエスは、私たちと同じように洗礼を受ける者として登場されました。

     主イエスご自身がまずその聖霊の力に満たされる。その時、「水から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのを御覧になりました。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』と言う声が、天から聞こえてきた」(10-11節)。今、天が裂かれる。神ご自身の、「霊」がいきいきと働き始めるのです。

     マルコは、第15章33節以下に、主イエスの死について語り、まず「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたように、まさに暗黒のなかで主イエスが死なれた姿を描きました。「しかし、主イエスが地上の生涯を始められたときに天が裂け、その生涯の終わりにおいて神殿の幕が裂けたのです。そしてこの十字架の主に向かい合った百人隊長がこう叫びました。「まことに、この人は神の子だった」。しかも、この声を発したのは異邦人でありました。マルコは、この神の子イエスの十字架に至る道を、自ら「この方こそ神の子」という信仰の心を込めて今語り始めるのです。

     マルコが時代の異なる複数の旧約引用を重ねたのは、先駆者ヨハネによって幕が切って落とされた今の時代の重大さを言いたいからです。それは神へと「悔い改める」喜びの時なのです。主はその約束を実行されます。そして私たちは、根本的に変わり、小さくされた人々や疎外された人々を受け入れることで、主を受け入れる者となるように招かれています。お祈りをいたします。