カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 星に導かれて旅立つ

    2021年12月26日
    詩編72:1~7、マタイによる福音書2:1~11
    関 伸子牧師

     2021年最後の主日礼拝をささげています。クリスマス・イブ燭火礼拝で読んだマタイによる福音書第1章のヨセフ物語において、正しい人ヨセフは、主の天使が夢で告げた言葉を信じて妻マリアを迎え入れ、命じられたとおり生まれた子をイエスと名付けました。第2章では星によってユダヤ人の王の誕生を知った東方の博士たちが真に礼拝できる王に会うためにやって来ます。博士たちが星を見ていると、不思議な星が見えたので、何か異常な出来事が起きるに違いないと彼らは直観しました。この箇所は「星」と「拝む」という言葉が繰り返し用いられています。

     新しい光を見、神の御業がなされるとき、人は驚くほどの努力をします。博士たちは遠い道のりを苦労してエルサレムにやってきました。恵みに動かされた人は、じっとしていません。しかし、博士たちの努力は、エルサレムの王の家まで導きましたが、そこで道は途絶えています。そこで道を切り開くのは、聖書の御言葉と、「星」のしるしでした。

     聖書の御言葉を学んで、精通していた民の律法学者たちは、御言葉を知っていても、信じて従うことをしなかったため、しるしによって救い主へと導かれません。多く知っていても、信じて従わないかぎり、光を放ってきません。救い主はすでにお生まれになり、信じる者をお招きになります。その招きに答えて、私たちは、小躍りしながら努力を惜しまずに招いてくださっている主のもとに行くのであります。

     次に、「拝む」について、マタイ福音書はこの言葉を好んでよく使うだけではなく、この言葉に含まれている意味合いを特に意識して用いています。たとえば、湖上を歩いて弟子たちの舟に乗ったイエスのエピソードをマタイ(14:32~33)とマルコ(6:51)がどう描くかを比較するならマタイの特徴は明らかです。マルコは、「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた」と述べるだけですけれども、マタイは、「二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスの前にひれ伏した」と書き加えています。マタイは「拝んだ」を「イエスに真の礼拝をささげる」の意味で使います。

     ユダヤ人の王の誕生を示す星を目撃し、その星の導きによってエルサレムにやってきた博士たちの目的は、新しく生まれた王を拝むことです。しかし、ユダヤ人の王の誕生は、ヘロデ王にとっては不安を抱かせる要因に他なりません。彼は自分の地位が脅かされるのではないかと恐れたからです。ヘロデ王は自分の王位を、紀元前2世紀半ばからユダヤ人たちを支配していたハスモン(=マカバイ)家の人びとを処刑することによって勝利していったため、「ユダヤ人たちの王」と聞いて、再び命懸けの戦いの開始を予感したのです。ヘロデは星について尋ね、「私も行って拝もう」と言いますが、その真意は幼子を抹殺することにあります。マタイは、預言者ミカの言葉を引用しながら、そこからメシアが生まれるゆえに、また、見かけの小ささにかかわらず、ベツレヘムはイスラエルの町々の中で「最も小さな者」ではないことを明言します。

     聖書は告げます。「決して最も小さな者ではない」と。しかも、ミカ書第5章2節では「小さい者ですが」となっているのを、わざわざ変えています。イエス・キリストにおいて、「最も小さい者のひとり」が覚えられているのです。宿命論が、「小さい」といって、投げ捨てるものを、神は「小さくない」といって拾い上げます。クリスマスとは、そのように、貧しい者が豊かにされ、富んでいる者がむなしくされるのです。私たちは、取るに足りないように思える者たちですけれども、そこから主が私たちのところに来られるのですから、大切な存在なのであります。

     エルサレムを出発してベツレヘムに向かう占星術の学者たちは、故国で見た星を再び目にして喜びます。星の下では幼子が母マリアに抱かれています。この幼子こそ闇に輝く光です。それは、真に礼拝することのできるものを発見し、身を献げるものに出会うことのできた者の喜びです。当時の博士たちは天文学者でもあり、自分の宝物から宝である黄金と香料を取り出しています。香料は新しいものほど新鮮な香りを保ち、黄金は古いものほどその品質が保証される。つまり、天の星のことを学んだこの博士たちは、自分の宝箱から新しい香料と古い黄金を取り出し、神の子にささげたのであります。今、博士たちが長い間たずさえてきた宝の箱をあけたように、あなたの最大のものを神にささげなさい。それが信仰の本当の姿なのです。
     
     物語は非常に美しい終わりを描きます。人を生かす王に出会った博士たちは、もはや人を殺す王のもとには戻らず、「別の道を通って」静かに帰途につきます。幼子と出会い、彼を礼拝することによって、博士たちは幼子が示す新しい道に向かって歩み始めたからです。道を変更したことは、聖書においては、回心の象徴であります。ひそかに幼子が育つ期間があります。博士たちも自分の国でじっと待たなければならなかったでしょう。すべてをささげて、静かに待つ。ここに新しい道を歩む力が生まれることを感謝して受け取りたいと思います。確かに星は輝いています。お祈りをいたします。