カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • あなたがたの救いが近づいている

    2022年11月6日
    創世記18:1~15、ルカによる福音書3:1~6
    関 伸子牧師

     主イエスが風光明媚なガリラヤで成長しつつあった時、ザカリアの子ヨハネはユダヤの荒れ野で成人していました。荒れた地と澄んだ夜空とが、ヨハネに祈祷と断食を教えました。この荒れ野には、エッセネ派と称される人々が住んでいました。彼らは一日に何度も水を浴びます。しかし、そのような形式的な行為の繰り返しによって、罪の汚れが洗いきよめられるはずがないのです。

     ヨハネの洗礼には他の水洗いの儀式には見られない特徴があります。まず、罪を認め悔い改めていることを示す洗礼とされていることです。なぜなら、神の支配が近づいており、それは裁きを伴うからです。次に、クムラン宗団での洗いの儀式は毎日繰り返されましたが、洗礼者ヨハネは生涯に一度の洗礼を説いていたと思われます。最後に、体を洗うのは自分自身ではなく、洗礼者ヨハネが洗いました。洗礼は「受ける」のであって、自ら行うのではないとされています。これらの特徴を生み出したのは、神の支配が切迫しているという自覚だったと思われます。

     問題は罪の汚れを洗い清めることにあるのではありません。罪の赦しを得ることです。2節後半に「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ」とありますが、これは今日の箇所全体を支える荘厳な言葉であると言えます。人間は権力の座をめぐって激しい闘争を繰り返すことがありますけれども、神はそういう者たちに働きかけずに、孤高の人洗礼者ヨハネに語りかけました。

     そこで3節では、彼の活動が短く要約され、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と書きます。聖書が述べる「悔い改め」には、旧約聖書の「立ち返る(シェーブ)」の意味合いがかぶせられていますから、「悔い改め」にとって大事なのは、神が示した方向であって、人間の努力ではありません。洗礼者ヨハネが「悔い改めの洗礼」を説いていたのは、罪の赦しをもたらす主がそこに来ているからです。整えられた道を通って主が来られます。こうして、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」という言葉が成就します。

     たとえばアブラハムに神の言葉が臨んだと、創世記の記者は記していますが、アブラハムにとって決定的なことは、彼が神の言葉を聞いたことです。今日の創世記の箇所を読みながら、信仰の歩みとは何であるか改めて考えさせられます。確かに、アブラハムは神の召しに応えて、行先も定かではない旅に出て行ったし、子孫を増やすという神の約束も信じました(15:6)。そして、その信仰が義とされたと言われています。しかし、そう信じていながら、アブラハムは現実の生活の中ではその信仰と矛盾したことをしているのです。その最たる例は、子どもができないのに耐えられなくなった妻サラの願いで、女奴隷ハガルに子どもを産ませたことです。第16章にあるその話は、結局、家庭の不和とハガルの追放という悲劇で終わっています。天使の言葉を聞いて、サラはひそかに笑うしかありませんでした。しかし、神はこの不信仰の笑いをするどく指摘しながら広い心で受け止めてくださっています。神の計画、救いをもたらす神の導きは、人間の信仰をはるかに越えて力強いということが言いたいのです。

     また、聖書の言葉には、現象を客観的に叙述するために用いられるだけではなく、当事者の間にあって欲しい関係を表現するためにも使われます。今日の箇所に現れる「道」もそのような言葉のひとつに挙げられます。イザヤ書第40章5節には、「人はみな神の救いを見る」という言葉がありますが、このテーマはルカによる福音書第2章30節から32節のシメオンの賛歌にも、「私はこの目であなたの救いを見たからです。これは万民の前に備えられた救いで異邦人を照らす啓示の光 あなたの民イスラエルの栄光です」、とあるように、ルカにとって大切なテーマなのです。ルカ第3章4節(イザヤ40:4)は、4節の、「荒れ野で叫ぶ者」の呼び掛け、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」に反応して引き起こされた自然の変化を述べています。

     言うまでもないことですが、ここに述べられた「道」は神と人間とを結ぶ心の道です。預言者を通して語られた神の言葉が開く道です。この道が開かれたのは私たちの力によってではありません。神の力に全幅の信頼を置き、身を低くする者に神が開く道です。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」という主題は、第1章46~55節で示された「マリアの賛歌」と呼ばれる箇所とも対応して、現実の社会の中で弱い者や困窮にあえぐ者への神の豊かな恵みの内容を示すものにほかなりません。

     荒れ野に呼ばわったヨハネの声はユダヤの全国に鳴り響き、人々の良心を鋭く刺激するだけの権威を持ちました。神の救いはすでにシメオンが見たものであり(ルカ2:30)、それは主イエス御自身です。イエスこそ聖霊によってマリアの胎に宿り、聖霊に満たされて神の言葉を語り、神の業を実現する神の子です。そのイエスによって、すべての人は謙虚にされ、正直な者とされ、神の恵みは異邦人にまで到達する。その恵みにあずかっている幸いに心から感謝して、神の言葉を誠実に受け止めていきたいと思います。お祈りします。