カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の子として生きる

    2022年11月13日
    出エジプト3:1~15、ルカ20:27~40
    関 伸子牧師

     カイザルに税金を納めることは善いか、悪いかという質問を主イエスにした者たちが、イエスの賢い答えを怪しみながら沈黙した後に、復活を否定するサドカイ派のある人々が主イエスのところに来て、また難問を吹きかけました。

     ルカによる福音書にサドカイ派が登場するのはここが初めてです。サドカイ派の人々は、現状維持を好む裕福な祭司長や長老たちからなり、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つの書(「モーセ五書」)のみを権威ある書として認め、ファリサイ派やエッセネはと異なり、天使も復活も信じていませんでした。モーセ五書には、復活を明確に述べる箇所は見当たらないからです。

     そこで、彼らはレビラト婚の規定(申25:5)を用いて、イエスに復活の有無を問います。レビラト婚とは、子どものいないやもめがその義兄弟と行うことのできる結婚のことです。レビラト婚の規定を厳格に守れば、一人の女性が7人の兄弟のいずれとも結婚したということは乗りこえます。サドカイ派の人々が復活を否定する論拠としたのは、そのような女性が復活後に夫とする男性は何番目の兄弟なのか、面倒なことになる、ということです。

     主イエスはここで彼らの主張が含む二つの誤解を指摘します。まず、「次の世」での命のあり方は「この世」の命のありさまで「次の世」のあり方を推測するのは間違っています。「この世の子ら」には死があるので、子孫を通して自分が生き残れるように、結婚をして子どもをもうける必要があります。しかし、「死者の中から復活するのにふさわしい」者はもはや死ぬことがないために、めとることも嫁ぐことも不要になります。彼らは天使に等しい、復活の子たち、神の子たちでもあります。サドカイ派はこの世の生活形態が死後にも続くと考えたので、「誰の妻になるのか」と心配しました。しかし、イエスは、復活した神の子たちは新しい存在であり男も女も互いに兄弟姉妹として生きることになると教えます。

     さらにイエスは、彼らが根拠としたモーセ五書を引用してその誤りを指摘します。モーセはイスラエルの解放の指導者となるべく神に選ばれた人でしたけれども、その歩みは決して順調なものではありませんでした。モーセは不思議な導きでエジプトの王宮で育てられましたが、青年時代に民族意識に目覚め、ヘブライ人の同胞がエジプト人に虐待されているのを見て、そのエジプト人を撃ち殺すという過ちを犯してしまうのです。そのために、追われる身となり、ミディアンの地に身を寄せているところでした。モーセはそこで羊飼いの生活をして生計を立て、ツィポラという女性と結婚し、一児をもうけました。そして、長い年月が経っていました。

     ところが、神はモーセを忘れておられませんでした。神は荒れ野の燃える柴の中に現れてモーセに声をおかけになります。とても不思議な光景でした。「すると、柴の間で燃え上がる炎の中に、主の使いが現れた。彼が見ると、柴は火で燃えていたが、燃え尽きることはなかった」(出エジプト3:2)と記します。乾燥した草木の発火は自然現象でもあり得ますが、ここでは神顕現の出来事として独自な意味が与えられています。人間は燃え尽きても神は燃え尽きることがないということです。

     燃える柴から語りかける神はこう言われます。「こちらに近づいてはならない。履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である」(3:5)。神は人が近づくことも許されないような超越的な神であり、「モーセは、顔を隠した。神を見るのを恐れたからである」(3:6)。ここだけを見ると、神は人間からはかけ離れた遠い存在のように感じます。しかし、これは、過去に「アブラハムの神だった」ということではなく、今も「アブラハムの神」であり続けているという意味です。なぜなら、神がアブラハムやその子孫たちと結んだ契約は有効であり続け、彼らの死によってそれが途切れることはないからです。神は「生きている者の神」ですから、人は生きているうちに神との関わりを持つことができます。しかも、その関わりは神の誠実さのゆえにいつまでも、たとえ死の後も続くのです。神との関わりの中にこそ、彼らは今も生きているのです。

     キリストと結ばれて生きる者は、すでにその「永遠の命」を生き始めています。永遠の命は、神と私たちの結びつきの中にあります。そして神が真実に私たちと結びついてくださるために、この世に遣わされたのが、主イエスです。永遠の命とは、神とキリストを知ることであると、主イエスは言っておられます(ヨハネ17:3)。私たちすべての者が永遠の命に生きられるようにと、神ご自身が、その道を示してくださっています。

     永遠の命を信じることは、使徒パウロが「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」と述べているように、日々の体験でもあります。人は皆、生きておられる神に仕える。その時、永遠の命に生きることができる。これ以上に真実に人間が生きる道があるか、と主イエスはサドカイ派の人々に求めました。私たちは生きておられる神に仕える道を選び取っていきたいと思います。お祈りします。