カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

  • 〒184-0011

    東京都小金井市東町2-14-16

    0422-31-1279(電話・FAX)

  • 望みをもって耐える

    2023年2月26日
    申命記6:10~19、ルカによる福音書14:1~13
    関 伸子牧師

     主イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けると、鳩のような形をした聖霊がイエスの上に下ってきました。その聖霊に満たされてヨルダン川から帰って来ます。この聖霊は、メシアを敵の手から守り、その使命を全うさせるために与えられた力です。

     その聖霊がイエスを荒れ野に導いたのは、そこで悪魔の試みを受けさせるためでした。荒れ野は石のごろごろした不毛の地帯であって、そこに住むものは人ではなくて野獣でした(マルコ1:13)。イエスはそこで40日間、野獣と共にいて、何も食せず、悪魔に試みられたのです。イエスが受けた誘惑は、かつて40年の間荒れ野をさまよったイスラエルの民が受けた苦しみと試練を追体験するものといえます。モーセに率いられてエジプトを脱出した民は、荒れ野では「パンを腹いっぱい食べることができない」と不平を言い(出16章)、異教の神々を拝もうとし(出32章)、「飲み水を与えよ」といってマサ・メリバで主を試しました(出17:1~7)。

     悪魔とイエスとの間で繰り広げられるしのぎをけずるような戦は、イエスが食べ物を取らず40日間、荒れ野に滞在し、そうして空腹を覚えられた後に始まります。このような飢え渇いた状態にあるイエスに対して、悪魔はイエスを試みます。

     ところで、日本語では、誘惑という言葉と試練という言葉を使い分けますが、この二つは新約聖書のギリシア語では同じ一つの言葉、ペイラスモスです。と言うことは、ある同じ一つの出来事が、私たちの関わり方しだいで誘惑となることもあるし、試練となることもあるということなのでしょう。

     悪魔の誘惑の二度目は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」とか、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」というように、「神の子なら」と述べています。これは、条件であり、へつらいの言葉でもあります。今、人間の肉体を持っているがゆえの、最もみじめな経験である空腹をイエスは体験しておられる。飢えを覚えておられる。その肉体に、真実に同情するというのならば、今こそ、あなたの神の子としての実力を発揮すべきではないか。石をパンに変え、その肉体の飢えを、渇きを癒すのを、まず、第一とすべきではないか。それが、あなたの言う愛のわざではなくして何であろうか。そう言ったのです。

     イエスは十字架上でも同じような言葉を浴びせられました。議員たちは「神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とあざ笑い、兵士たちも「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱しました。メシア(ユダヤ人の王)であれば、十字架から降りられるはずなのに、惨めに十字架に釘づけにされたままですから、彼らの目にはイエスはとてもメシアとはいえない人物です。

     しかし、神の救いの計画は異なっていました。十字架から降りるメシアではなく、降りないことによって、すべての人々を罪の束縛から解放することが神の意思でした。イエスにとって、十字架から降りることも、石をパンに変えることも容易だったかもしれません。しかし「神の子」の本質は神の計画に従うことにあるのであって、人間の好奇心を満たすためにその力を誇示することではないのです。

     荒れ野の誘惑でイエスは私たちに一つのよい模範を示しておられます。イエスは悪魔の誘惑に対して、3回とも聖書の言葉を引用して対抗しておられます。すべて申命記の言葉です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きるということを、あなたに知らせるためであった」(申命記8:3b)。「あなたの神、主を畏れ、主に仕え、その名によって誓いなさい」(6:13)。「あなたがたがマサで試したように、あなたがたの神、主を試してはならない」(6:16)。なぜ申命記が用いられたのか。偶然ではないでしょう。申命記は、荒れ野での民の失敗を振り返り、これから入って行こうとする約束の地での生き方を教えた書物だからです。

     悪魔のもくろみは失敗し、イエスを聖霊の力から切り離せはしません。そこで、14節「イエスが霊の力に満ちてガリラヤに帰られると、その噂が周り一帯に広まった」と14節に述べられ、さらに18節では、「主の霊が私に臨んだ」イエスが「貧しい人に福音を告げ知らせ、捕らわれている人を解放する」メシアの仕事に着手することが告げられます。主イエスは、これから始める働きの中で、神と神の国が最も大切なものであることを宣言することになります。

     試みに勝つ秘訣、それは、私たちの教会の今年の標語聖句に掲げているマタイによる福音書第6章33節、「まず神の国と神の義を求めなさい」という一言に尽きます。その時、悪魔の権威と栄華は風に吹き飛ばされていくことが明確になるでしょう。信仰の目には、今でもすでにそのことは明らかなのです。私たちも受難節の期間、聖書の御言葉に立って生きる経験を日々新たにしたいと思います。祈ります。