カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 喜びの証人

    2023年6月4日
    詩編18:1~10、使徒言行録12:22~36
    関 伸子牧師

     先主日、ペンテコステ礼拝後に「炎のような舌」を象徴して、ここで、みなさんと薔薇の花びらをまいて写真を撮りました。映像として残っているでしょうか。今日の聖書箇所は、五旬祭の日、弟子たちに聖霊が降ったのを見て驚く人々に、「ペトロが十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた」(使徒2:14)とあります。あの弟子たちがついに立ち上がった! イエスがユダヤ人たちに捕らえられたとき、怖くなって逃げだしてしまった臆病な弟子たちが、生まれ変わったように堂々として立ち上がり、声を張り上げ、福音を宣べ伝え始めました。

     このペトロの説教には、イエスについての二つのケリュグマ、(初代教会が外に向けて語りかけた、イエスに関する証言)が記されています。

     今日の箇所の22節から28節が第一のケリュグマであり、その中心部は22節bから24節です。その骨子は、「神から遣わされた方であることを神が証明したイエスを、あなたがたは十字架につけて殺したが、神はその方を復活させた」となります。このように述べることによって、神が派遣したメシアを拒絶したユダヤ人を告発すると同時に、人間の無理解を超えたところで、救いを成就させる神の熱意を強調しています。この世界と歴史を支配している神はおられ、御自分の永遠の目的と計画を着々と進めておられます。まさにイエスの十字架はその現れでした。

     24節には「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」とあります。私はペトロがこの言葉を語り出したときに、自分自身で驚いていたのではないかと想像します。真実の意味で感動していたでしょう。神の国、神の支配というのは、死の支配を退けたところに生まれます。お甦りになったイエスを私たちが主として迎えたとき、私たち自身が甦りのいのちに生きることができるようになるのです。

     そこで、25節は「ダビデは、イエスについてこういっています。『私は絶えず目の前に主を見ていた。主が私の右におられるので 私は揺らぐことがない』」と書きます。詩編第16編の引用です。ペトロは、私たちは今そのように甦りの主イエスをダビデの言葉で歌うことができるのだと言っているのです。このゆるぎないいのちの支配、そのような神の国として今生き始めている教会の仲間になるように、と人びとを迎え入れ始めているのです。主と共に歩むことは、将来の希望に支えられながら生きることであり、そのために喜びが絶えないのです。

     第二のケリュグマの中心部(32~33節)では、イエスの死には触れずに、復活と高挙にテーマを絞っています。神はイエスを復活させ、神の右に上げました。神の右の座は名誉ある座であり、イエスは父なる神が約束していた聖霊を受けて、それをこの世の弟子たちに注ぎだしました。それは、具体的に聖霊降臨という五旬祭の出来事という形で実現されており、弟子たちは実際に火のような分けられた舌を見て、すべての人々が異なる言葉で語り始めたのを聞いています。

    こうして、死んだメシアが高挙のメシアとなり、父から受けた聖霊を注いだ。その結果、弟子たちは世界中の言葉を語ることができました。聖書の真理は、この世の真理が終わるところ、そこから始まることを思わされます。それは、「死から命へ」(ヨハネ5:24)向かうのです。この世は、「命から死へ」ですから、この世を逆転する真理がここにあります。すなわち、「神はこのイエスを甦えらせた」。これは私たちが自分の知識で理解する真理ではありません。信じるように導かれることでしょう。

     ペトロや弟子たちは語りながら伝道する喜びを確かめていたことでしょう。聖霊が降るまで、自分たちは何の力も持っていなかったことを知っています。しかし、聖霊が降ってから、彼らは語るべき言葉を与えられました。語るための力が与えられました。それはまさに神が自分たちと共にいてくださるということを実感する時であったと、私は思います。
     
     36節「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。イエスの十字架刑が単に異邦人の手を通してなされたのではなく、神の民であるイスラエルの人々によってなされたということを、イスラエルの民は知らなければならないのです。

     十字架は私たちを洗礼へと招きます。その招きによりイエスの御支配のしるしの霊が注がれて、今このように主イエスのいのちの御支配の中に立つことができる。これがペトロの語った説教であり、私たちも今、霊に支えられて語り続けているいのちの福音です。お祈りをいたします。