カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 救いはここに

    2023年6月11日
    詩編133:1~3、使徒言行録2:37~47
    関 伸子牧師

     ルカによる福音書の続編として書かれた使徒言行録は、復活のイエスの昇天から始まります。イエスの約束どおり、弟子たちは五旬祭の日に聖霊を受けます。約束の聖霊が注がれて教会が誕生した。それに続いて、ペトロの説教が明快に、しかも力強くなされました。今日の箇所、36節以下は、その説教の結びになります。福音が率直に大胆に語られるところでは、必ず人々の反応があります。
     
     イスラエルの全家は「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」(36節)とはっきり知らなければならない、とペトロは告げます。罪の自覚を促しています。神にとってのイエスは「主、メシア」ですけれども、あなたがたユダヤ人にとっては「十字架につける」べき人物でした。ユダヤ人は確かに無理解で、神の業を見ることができませんでしたが、神はそのような誤解と妨害を乗り越えて救いを成就させます。

     ペトロの説教を聞いた人々は「大いに心を打たれた」(37節)とあります。この語は「突き刺される」を意味します。これは、説教に対する聴衆の反応を示しています。それは、単に感動したのではなく「良心の呵責に心をえぐられた」ということです。今までは気付かないで行ってきたことがどんなに恐ろしい罪であったかを、彼らは良心が突き刺されるような思いで知ったのでしょう。人々が聞いていたのは、ペトロを通して語られた神の言葉そのものです。そこから、いろいろな種類の感情の動きを表現することができます。そこで、彼らは「兄弟たち、私たちは何をすべきでしょうか」と」と尋ねます。この問いは、人々がこれまでの行いを反省し始めていることを示しています。求道の心が芽生えています。

     ペトロはそれに応えて「悔い改め」を勧めます。聖書が述べる「悔い改め」は、回心することで、心を入れ替えて神に立ち帰ることを意味します。この道は人々を洗礼へと導きます。使徒言行録では、霊はその好むところに息吹を与え、洗礼と按手に結び付いています。しかし、この霊の付与が、後の教会の定めや慣習に束縛されることは拒絶したのです。イエス・キリストの名において洗礼を受けることは、命に与える霊に参入することなのです。それは、「この約束は・・・・・・私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです」(39節)。ここで「招く」と訳された言葉はここにおいては「神がご自分の前へと呼び、救いにあずからせる」ことを意味します。キリスト者とは、このように「呼ばれた」命を生きる人なのです。

     ペトロは世の人々に対して、力強く証しをしたのです。何を証ししたのか。それは、すべての人は罪人であるということです。イエスはすべての人の罪を背負って十字架におかかりになったのですから、すべての人は神の子であるイエスを殺した者なのです。おかした罪は消えません。しかし神は赦してくださる。神が罪人を赦すほどに、愛してくださるのです。罪人なのに愛され、許されるということをペトロは語り、それを聞いた人々が洗礼に導かれました。彼らの喜びはとても大きかったと思います。

     「信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から行為を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである」(44~47節)。本当に一つになると、他人だった人が家族になります。どうでもよかった人が、愛する人になります。他人の悩みが自分の悩みになります。一緒にいたくなります。助け合いたくなります。それで、「信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った」ということが起こったのでしょう。

     人がひとつになるのは難しいことです。制度をつくって、一つになることを無理強いしても、うまくいかないでしょう。誰でも、他人に干渉されたくないと思います。また、他人のことより自分のことがかわいいのも事実です。人のために損をしたくないと思います。しかし、最初のキリスト者たちは、神が自分たちのために独り子イエス・キリストという大きな犠牲をはらってまでも愛してうださったということを、強く感じていたに違いありません。そこから人のために犠牲を惜しまない心が生まれたのではないでしょうか。それが彼らを一つにすることができた力だと思います。

     このような喜び溢れるキリスト者の姿が、また新しく加わる人々を呼び起こしたのです。それは根本的には主イエスの働きによるものです。神を賛美する。神の栄光をほめたたえることが、私たちの人生の究極の目標にほかなりません。これが誕生したばかりの教会が行っていたことです。言い換えれば、これらは教会にとって最も基本的な証しであると言えます。私たちは祈りをささげ神を賛美することを生涯続けていきたいと願います。お祈りをいたします。