カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主イエスのみ足の跡をたどる

    2024年6月9日
    ハバクク2:1~4、ヨハネ一 2:18~27
    関 伸子牧師

     「子どもたちよ、今は終わりの時です」(18節)。ヨハネは「今は終わりの時です」と言います。「終わり」は「最後」の意味です。すなわち、今は神の計画全体の中で最終段階にさしかかっている時だと言っているのです。

     「反キリスト」と呼ばれる異なる教えから群れを守るために、ヨハネの手紙一の著者は、イエスこそメシア・キリストである、という初めからの教えを心にとどめなさい、そうすればあなたがたは父なる神の内にあり、また御子キリストの内にある、それこそが永遠の命である、御子の内にとどまりなさい、と教えています。

     一世紀の教会に起こった「反キリスト」と呼ばれる教えがどの程度の範囲に広がり、人々を惑わし、教会の分裂をもたらしたのか、推測の域を出ませんが、古来さまざまな神学論争が教会内で起こり、ある時点で政治的争いに変質し、教会分裂を引き起こし続けてきたことは、教会史および教派の歴史を見ても明らかです。
    ヨハネの手紙は、ここで「反キリスト」という言葉を二度用いています。この「反キリスト」(アンティ・キリスト)、この言葉が新約聖書に記されているのはこのヨハネの手紙だけです。このあとにも登場します。日本の文学者の中にも芥川龍之介や太宰治という人はこのアンティ・キリスト、キリストに反する思いが自分たちの中にあることで深く悲しみ、悩んだ人たちです。

     「反キリスト」、それは教会の伝承から離れ、自分勝手な解釈を立てて都合のよい理解をもって人々を惑わすものであったとヨハネの手紙の著者は言明しています。二千年という年月を超えてこの御言葉を読み取る時、この指摘に対して現代の私たちは反キリストではないという確信があるかどうかどうか問われるところです。

     そこでヨハネは、「初めから聞いたことが、あなたがたの内にとどまるようにしなさい」と勧めます(24節)。初めから聞いている正しい信仰告白にとどまるようにというのです。キリスト者はただ熱心でまじめであればよいのではありません。真理を見分け、そこにとどまることが必要です。「とどまる」ことの中には、ヨハネ黙示録でエフェソの教会に書き送った使信にあるように、「ためし」「見抜き」「勝利を得る」ことも含まれているのです(黙示録2:27)。真理にとどまっているからこそ、光である神との交わりの中にとどまることができるのです。そして、キリストが約束された永遠のいのちを受け継ぐことができるのです(25節)。

     先ほどハバクク書の言葉をお読みしました。世に不法と暴虐が満ち、正義が行われないことを嘆く預言者ハバククに、神は必ず実現することになっている「幻」を書き記し、それを待ち続けるようにと告げます。預言者ハバククは人の世が暴虐に満ちていることを嘆いていますけれども、教会もこの世にある以上、神の正義から離れ、人間的エゴイズムから発する衝突と争いに絶えずさらされています。その渦中にあって、私たちにできることは、ヨハネの手紙一が勧めるように、ただ言葉と行いにおいて、また、私たちの存在のすべてが神とキリストの内にありますように、と願い求めることにたどり着きます。

     イエスを信じる者は、またイエスをキリストと告白する者は、永遠の命を得ている、とヨハネ文書は語ります。しかし、この時代、この世界にあって、イエスを信じて歩むとは、イエスをキリストと告白して生きるとはどういうことか、それを問い続けることが信仰の道であり、永遠の命、神の幻を求め続ける旅に終わりはない。旅の途上にある私たちは、誰も自らを神の正義の側に置いて、他者を断罪することはできないのです。むしろ、キリストの名のもとに衝突と争いをくり返している人間の愚かさを省みて、憐れみを祈り求めたい。

     26節に「あなたがたを惑わす者たち」とあるように、今も絶えずキリスト者に対して惑わしも試みます。けれども、「あなたがたの内には、御子から注がれた油がとどまっているので、誰からも教えを受ける必要はありません。この油があなたがたにすべてのことを教えます。それは真理であって、偽りではありません。ですから、その油が教えたとおり、御子の内にとどまりなさい」(27節)。

     第4章では、そのすぐ後に「神の愛」を示し、愛が神から出るものであり、それは独り子をお遣わしになったことで示されるとあります。その神の愛の内にとどまり、互いに愛し合うことによって神の内にとどまることができると記されています。ヨハネの手紙は「愛の手紙」、「交わりの手紙」と呼ばれていますが、しかし、戦いの手紙でもあるのです。

     ここに記されている言葉は、あれかこれかを問うだけであって、あれもこれもという余地はないことだということをはっきり語ります。ヨハネ神学において聖霊の働きは、キリストが教え、与えた平和によって見分けられるということができるのではないでしょうか。神がキリストを受肉させ、さらにキリスト昇天の後には聖霊を与えて教会を生かすという約束は今も生き続けています。その約束の中を希望と喜びを持ってわたしたちが生きていくことこそが、さまざまな形で現れる「反キリスト」の働きに抗って、初めから聞いたことにしっかり立ち続けることになる。この永遠のいのちの約束は、ここにあるすべての方々に与えられています。甦りの主、み子イエス・キリストからの約束です。すべての方に祝福が豊かにありますように。祈ります。