カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 口と心をひとつにして

    2024年6月2日
    申命記30:5~11、ローマの信徒への手紙10:1~13
    関 伸子牧師

    パウロは、ユダヤ人たちに「きょうだいたち」と親しく呼びかけながら、キリストによって自分の同胞の救いを願っています。イスラエルの過ちを認めながらもなんとかして弁護しようとするのです。ここで律法は終わりを迎えたことを語ります。
    ユダヤ人は、いまでも神に対して非常に熱心な民族です。たとえば安息日を守るとか、十一献金をするということにおいてもそうです。しかしパウロは、その熱心さは認めるが、その熱心が深い知識によるかどうかが問題であると言っているのです。日本のことわざに「いわしの頭も信心から」というのがあります。熱心に拝めばそれが何であろうかまわないという考え方です。キリスト者の信仰は、熱心であれば神に喜ばれるというものではなく、何にもとづいて熱心であるか、何を熱心に求めていくかということが大事なのです。
    そういう神に対して熱心に祈るとは、どういうことなのでしょう。私の熱心が何かを生み出すとすれば、重点が自分になってしまいます。しかし、キリスト者の重点は神にあります。神がこうしてくださったという神の出来事から、私たちの信仰は始まっているのです。私たちは奉仕をするときも真面目に取り組みますけれども、他の誰よりも熱心であるとか、一生懸命奉仕するとかということは問題ではないのです。

     主イエスは救い主である。私が何の力もないところでほんとうにだめな者を救ってくださったことを思うと、このような者にまでおよぶ救いは心からの喜びとなります。そこにイエス・キリストの十字架を覚えつつ、主イエスに従う生活が始まります。神の子主イエス・キリストが十字架について死んで甦えられたということが、本当に私に関係のある大きな出来事なのです。

     5節は、一段落着いたように、4節に続いています。しかし、実際は、原文を読むと、「なぜならば、モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いてある」と続くのです。なぜキリストは律法の終わりなのか、律法の目標なのか、律法の完成なのか。モーセは言った、おきてを守る者、おきてに生きる者は、そのおきてを生きる義によってすでに義とされると。

     5節から13節は、4節の主張「キリストは律法の終わりであり、信じる者すべてに義をもたらしてくださるのです」を二つの聖句によって説明しようとしています。引用されているのはレビ記第18章5節と申命記第30章11節から14節ですが、特に後者を引用している6節「心の中で、『誰が天に上るだろうか』と言ってはならない」は独特の表現です。この言葉についての詳しい解説をすることはしませんが、読んでそう難しいことではないと思います。天に上る人なんか、ひとりもいないよね、と言うなというのです。あるいは、もう上らないで済むということです。なぜかと言えば、主イエス・キリストは天から来られ、天に上られたからです。しかもただひとり、ご自分のこととしてなさったのではないのです。改革者カルバンは言いました。キリストが天に上られて以来、私たちは天を仰いで、あそこに私たちの故郷があると、言えるようになった。「誰が、底なしの淵に降るだろうか」。私たちの悩みや苦しみ、滅びのどん底まで、だれが一緒に堕ちてくれるかなどと言うな。主イエスが堕ちてくださった、いや、私たちが知らない罪の深みまで降りていってくださったのではないか、ということです。

     8節では、「では、何といっているでしょうか」と語り、申命記第30章14節を引用していますが、申命記第30章14節そのものは、「その言葉はあなたのすぐ近くにあり、あなたの口に、あなたの心にあるので、あなたはそれを行うことができる」と書いていますから、パウロは「それを行うことができる」を引用しなかったことになります。しかし、パウロはこの引用の後に、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」と続けていますから、救いにために必要な態度は御言葉の実行ではなく、「口で公に言い表す」ことと「心で信じる」ことであると説いていることになります。
     しかし、イエスが主であると口で告白することは簡単なことではありませんでした。ローマ帝国では、皇帝を主と言い表すことが要求されていたからです。そういう世界で、イエスこそ主であると告白するのは、死を意味する場合も少なくなかったのです。皇帝かイエスかということだけなく、だれが私たちの真の主であるか、私たちは何に仕えるのか、ということは、いつの時代でも、信仰者にとっては、もっとも重要な戦いです。私たちの国でも切支丹の長い歴史はこの戦いの歴史でした。このことは、今日でも私たちにとっては、忘れることのできないことです。これが曖昧にされると信仰者の生活は死んでしまうのです。富や名誉のような身近なことでもこれがどんなに激しい戦いになることでしょう。

     イエスを主と信じる信仰は、私たちの周囲にあるいろいろなものとイエス・キリストとを比較して、どちらが自分の真の主であるかを知ろうとして分かるものではありません。それは、自分がイエス・キリストによって救われた者であることを堅く信じることから出てくることです。

     人間は神の前に完全な生活、正しい生活をおくりたいと願っているのです。しかし、自分たちの罪のゆえにこのことは決して簡単なことではなくなった。しかし、神は、キリストによって、それを救いにしてくださいました。キリストの救いによって、主を救い主と賛美をもって言いあらわすことができれば、だれでも、失望することのない恵みを豊かに与えられるのです。祈ります。