カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストの愛に生かされる

    2024年9月15日
    歴代誌下7:11~16、エフェソ3:14~21
    関 伸子牧師

     聖書の中の諸文書を書いている人は、みな、祈りながら書いていたであろうと思います。これは自分のことではなく、神のことだからです。人間に向かって話ながら、神にも向かっている、ということになると思います。今日ご一緒に読むエフェソの信徒への手紙第3章は、ひとつの区切りとなります。そこで、見事な祈り(14~19節)と頌栄(20~21節)によって結ばれるのです。

     「このようなわけで、私は、天と地にあって家族と呼ばれているあらゆるものの源である御父の前に、ひざをかがめて祈ります」(14節)と言って祈り始めます。イスラエルの人は、立って祈るが普通であったといわれます。神に祈る形は、どうであってもいいでしょう。しかし、立つことが普通であった人が、ひざまずくというのです。心をつくして祈ることが、自然にこういう形になったのでしょう。わたしたちはどうでしょう。言葉だけでなく形でも祈っているでしょうか。デューラーは、手だけで祈りをあらわしました。手だけで祈ったともいえるでしょう。

     その祈りの内容は何でしょう。「キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように」、「すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどのものかを悟り、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができ、神の満ち溢れるものすべてに向かって満たされますように」と祈っています。

     「キリストがあなたがたの心の内に住んでくださいますように」とは、キリストが心の内に住んでくださるまでに、キリストによって生きるということでしょう。パウロは、自分はキリストの奴隷である、といって、キリストの思いのままに生きることを誇りとしていました。「キリストの内住」というのは、日本のプロテスタントの信仰の歴史において重んじられてきた言葉です。ここでそれが語られています。しかしそれは、わたしたちが主イエスをお迎えするというよりも、父である神がわたしたちの内にキリストを住まわせてくださることです。パウロはそう言います。わたしたちがお迎えするより先に、キリストが先にわたしたちの内に住み込んでくださると言うのです。

     キリストが住んでくださると、実際には、どういう生活が生まれるのでしょう。それは「あなたがたが愛に根差し、愛に基づく者となること」などです。愛が根のようになって、自分を生かしてくれるものとなり、愛が建築の土台のように、自分が支えられる、という生活はかりそめのものではありません。それは、愛を喜ぶ生活です。

     キリストに出会い、信仰を与えられたとき、人は、もはや自分の力ではなく、自分の内側に働くキリストの力に突き動かされて生き始めます。ここで言うキリストの愛、キリストによる愛の広さとは、何でしょう。小さなわたしたちの経験からいっても、その広さをたたえないではおられないでしょう。それは、限りない包擁力があります。無数の形をもった罪人たちのすべてを抱く広さがあります。

     パウロはキリストの愛を全方向的に広がり続けているものと言い表しました。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を理解する、知ることを勧めます。ところが、一方でパウロ自身がキリストの愛は、「人知をはるかに超えた」(19節)と述べています。もはや言い表すことができないが、常に語り続けることがパウロの使命だと受け止めているのです。
     しかし、そうは言っても、キリストの愛の大きさを誰が知ることができるでしょうか。それは、まさに人知をはるかに超えたものです。どのようにして知ることができるのでしょう。人知を超えたキリストの愛を、ことごとく知ることは、だれにもできないことであるかも知れません。しかし、人知を超えているとだけは言えるのではないでしょうか。計ることはできないにしても、これは計ることができないほどに大きい、ということは言えるのではないでしょうか。

     イエス・キリストが主である、というのは、神が御子を世につかわされた、ということだけではありません。御子が来られたのは、人を救うためです。ヨハネによる福音書第3章16節にあるように、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためであり」ということです。御子がこの世に来られたのは、人を救うためです。十字架と復活によって、罪ある人間を救うためです。それならば、その救いを信じることがなければ、イエス・キリストは主であり、と言うことはできないはずです。礼拝において、このような大いなる業を成された神を信じると言いあらわして、まことに、神をほめたたえることができるのです。

     イエス・キリストが主である、と言いあらわすわたしたちは、すべてをつくして主に従うことを言いあらわして、礼拝を終えるのです。このようにして、「教会により、また、イエス・キリストによって」神に栄光を帰することができるのです。

     「栄光が世々にわたって、とこしえにありますように、アーメン」(21節)。変化して止まらないこの世にあって、あらゆる変動にも影響されないで、賛美がつづけられるのは容易なことではありません。自分の生活のどんな変化にも負けることなく、ただ、神にのみ栄光を帰することは、決して簡単なことではありません。まことに、アーメンと言って祈るほかない、と思います。