カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストにあって生きる

    2024年10月6日
    ヨブ42:1~6、フィリピ1:12~26
    関 伸子牧師

     パウロは獄中にあることも福音の前進に役立ったと確信し、宣教への熱意を語ります。福音の前進と書いてあります。「前進」とは、「前」を「打ち」砕きながら進むことを意味する強い表現であり、軍隊の更新をも示すことを考慮すると、この13節でパウロは、イエス・キリストにおける平和の福音の力が、ローマ軍の力よりも勝っており、そのローマの兵営にまで侵入していることを力強く説いているのです。

     パウロは、「私が投獄されているのはキリストのためである」と言います。この言葉を原文通りに言うと、キリストにおいてということなのです。自分が牢獄に繋がれたということは、キリストにおいて明らかになったというのです。キリストによって、明らかになったのはどういうことかというと、それは、キリストの力によって、それが知られるようになったということです。この手紙が書かれた頃、一人の人間が、ある宗教のために、牢獄に入れられるということは珍しい事ではなかったに違いありません。しかし、それが評判になったのは、キリストが働いておられたからである、とパウロは言うのです。

     パウロは、自分がいつでもキリストの支配下にあるということを信じていたのです。キリストの支配の下におかれ、キリストが思うように自分を動かしておられるのであるということを確信していたでしょう。だからこそ、自分がキリストのために牢獄に入れられたことが明らかになった、とあえて言ったのです。

     その結果、どうなったのでしょうか。14節を見ると、「主にあるきょうだいたちのうち多くの者が、私が投獄されたのを見て確信を得、恐れることなくますます大胆に、御言葉を語るようになったのです」と書いてあります。兵営全体に知られるようになったということは、信仰を持っていない人に対して、それが証しとなって響いていったということなのでしょう。ところが、信仰を持っている人たちはどうだったのでしょうか。パウロが牢獄に入れられたことで、みんながっかりしたでしょう。ところが、牢獄の中にいるパウロが、実は、そこでもキリストの支配の中にあるということが、分かって来たのです。そうすると、信仰を持っている人びとは、起こっていることが分かり、確信を取り戻し、いよいよ熱心に福音を語り続けるようになったのです。

     ところが、キリストの福音を宣べ伝えている者がいても、それは、実は、キリストの福音を宣べ伝えさせられているのであるということです。そこにねたみや党派心、純真でない心、見栄、というような態度で、キリストを宣べ伝えていたというのです。考えてみると、この人たちの中に、わたしたちが、普通の意味で考えるような、福音を宣べ伝えるということにふさわしい人は、一人もいないでしょう。ただ神が、お用いになるだけなのです。

     パウロは、自分が弱い者であるからこそ、「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の支えとによって、このことが私の救いとなることを知っているからです」(19節)と言えるのです。祈ってくれていることを知った時に、このように心から喜び、いや、あなたがたの祈りがあればこそ、自分のまわりのすべてのことが自分の救いに役立つのだ、と言うのです。そして、このようにあらゆることが自分の救いの成就に役に立つのは、イエス・キリストの霊の助けによっている、と言うのです。主イエス・キリストの霊というのは、実は、主御自身がそこにおいでになるということなのです。

     しかし、その一方で、「私にとって、生きることはキリストであり、死ぬことは益なのです」(21節)と言うとき、パウロは生き続けることによって得られる実りと、この世を去ってキリストと共にある幸いとの間で揺れています。たとえば、重い病に苦しむ人や、連れ合いや親しい人々に先立たれ孤独の中にある高齢者が「早くイエスさまの所へ行きたい」と訴える場面に、牧師はしばしば遭遇します。そのようなとき、苦しみつつ生きなければならない人々にとっては、死は苦しみからの解放であろう、と思わされます。しかし、パウロが、たとえ囚われの身であっても、拷問や迫害、病に苦しめられることがあっても、自分が生き続けることがフィリピの人々にとってより必要なのだと語るように、私たちは、キリスト者として善い行いを通してだけでなく、痛みや孤独に苦しむ姿も含めた、トータルな人間存在として、キリストを証しするために活かされています。

     ここで言われていることによれば、教会にある神のご計画に、神の意志が生きるために、ここを通して、すべての人の救いのために生きなければ、本当に他の人のために生きるということにはならない、とパウロは思っているのでしょう。

     何をもってキリストを証しするか、それは私たちの思いを超えて神の御計画によるのです。だから、私たちは、ただ、痛みと悲しみに深く共感し、分かちあおうとする人々の間に復活のキリストは現れ、共に涙を流しながら、私たちの思いを超えた業を起こされることに信頼して歩みたいと思います。25節のはじめには、こう確信しているから自分は、このようにするのであると言っていること、その同じ確信の内容がわたしたちにもまた、与えられていることを信じ、感謝して、証しの日々が祝されることを願います。