カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

礼拝説教の要旨をご紹介しています

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  • 大いなる救い

    2024年10月13日
    士師記11:29~40、ヘブライ9:1~14
    関 伸子牧師

     ヘブライ人への手紙は新約の手紙の中では特殊のものと言われており、本書は「勧告の言葉」(13:22)、つまり説教です。「最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました」と第9章1節に記されています。ここで、礼拝の話を始めています。今日の箇所の直前の13節には「神は『新しい契約』と言われることによって、最初の契約を古びたものとされたのです」と記されています。何が新しくなったのでしょう。新しくなったのは礼拝が新しくなったということです。

     10節に「改革の時」という言葉が出てきます。改革とか、確信とか、そういう訳がなされるのですが、ある人の説明によると、この改革・確信は、特に法が改めることによって世が新しくなることを意味するようです。日本では、日本国憲法が新しい法として私たちの国の基本を定めるものとなった。憲法が変わることによってこれまでの世の中の仕組みが変わった。選挙の仕方から政治の仕組みから、何から何まで変わる。その時を生きた方たちは解き放たれた思いを味わったことでしょう。このヘブライ人への手紙を書いている人も、社会の基礎である法が改まって、社会が一新するように新しいものが生まれたと言うのです。14節に「生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」とあります。礼拝をしながら、礼拝が新しくなったと言っているのです。

     1節から5節までに書かれていることに関わりのあるところとして、出エジプト記第25章があります。出エジプト記の規定によれば、契約の箱は内側も外側も純金でおおわれ、宥めの蓋は純金製です。今日の箇所の4節によれば、マナの壺も純金製です。金が強調されています。至聖所は、金のふんだんな使用により、ここが天上の神の臨在の場であることを表しています。至聖所は、地上において天上を垣間見ることができる特別な場所です。

     翼を広げ、宥めの蓋を一対のケルビムが覆っていました。ケルビムは、この世に存在している被造物ではなく、天的な被造物です。神の座とも呼ばれることがあります。「栄光」という言葉で修飾されているのは、栄光の神と非常に親しい関係にあるからです。その天的なケルビムが地上に降りて来て、宥めの蓋を両側から囲み、守っています。「宥めの蓋」は、契約の箱の蓋です。

     祭司たちは礼拝を行うために日々、第一の幕屋つまり普通の聖所に入ります。他方、第二の幕屋つまり至聖所には、年に一度だけ大祭司だけが入ります。時をわきまえずに入るなら、死を招くことになります(レビ16:2)。入る際、自分と民の「罪のきよめのささげ物」として雄牛と雄やぎを屠り、その血を携えなければなりません。この規定は大祭司であっても近づくことが困難な神の聖性を表しています。

     聖なる神を畏れ、罪のきよめの必要を覚える点においてこの規定は有益です。しかし、礼拝の本質が明確に現れている至聖所で礼拝できるのは大祭司だけです。そこには、大祭司以外のイスラエルの民はだれ一人行くことができないのです。

     著者は、出エジプト記から至聖所の恵みを読者に思い起こさせ、同時に、その限界を示し、そこで表された恵みのすべてを主イエスの中にのみ求めるように読者を導きます。シナイの契約では祭壇と民とに動物の血が振りかけられました。同じように、新しい契約も血によって成立しますが、新約の場合は動物の血ではなく、キリストの血であり、それは人間の罪の赦しのために流された血でした。動物の血はキリストの血を指し示す予型にすぎません。動物の血は毎年繰り返されなければなりませんが、キリストの血はただ一度だけ流され、すべての罪を赦す永遠の贖いをもたらす完全なものでした。

     11節に「しかしキリストは、すでに実現している恵みの大祭司として来られました」と記されています。これは明らかに主イエス御自身のことです。主イエスの存在そのものが私たちの礼拝の場所になってくださる。キリストも、新しい契約のもとでの大祭司として、聖所に進みますが、キリストが入った聖所(幕屋)は「人間の手で造られたのではない・・・・・・更に大きく、更に完全な」ものなのです。

     キリストの血によって真に「私たちの良心」が清められるとは、私たちの中にどのようなことが起こることを意味するのでしょうか。キリストの血が、私たちの良心をきよめ、私たちを天上の神礼拝へと導きます。

     子ども説教で創世記のヨセフ物語を読んでいます。ヨセフは、父ヤコブの溺愛を受け、兄たちに妬まれてエジプトに売り飛ばされました。しかし、そこで宰相となりました。飢饉が起こり、兄たちはエジプトに食糧を求めてやって来て、ヨセフと再会します。そのときヨセフが目にしたのは、自分にしたことを悔い改めている兄たちの姿です。ヨセフ物語のクライマックスは、ヨセフが兄たちを赦すことにあります。罪に苦しむ兄たちの良心は、罪赦されて初めて平安を取り戻したことでしょう。罪の自覚を生み出す良心に赦しが与えられないとすれば、それは悲劇です。

     良心は、思いのほかあやふやで、世の常識的な判断にすぐ迎合します。また、私たちは、自らの良心の本当の姿に目を向けようとしません。キリストの十字架の血のみが、良心の汚れを私たちに気づかせ、その汚れた良心をきよめる力を持って、赦しの確信へと私たちを導きます。どれほど罪深い日々を歩んだとしても、キリストの血による永遠の贖いを受けたキリスト者は、良心をきよめていただいた者として、悔い改めと赦しの感謝をもって、主の日が来る度に、神の前に立ち、礼拝をささげ続けます。そこで、救われて新しい契約を生きる者として、他者と共に生きることを真剣に追求し、命を燃やすことを喜びたいと思います。大いなる救いにあずかった者として神の召しに大胆に応えていきましょう。祈ります。