カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 誰を待つのか

    2024年12月15日
    士師記13:2~14、マタイによる福音書11:1~6
    関 伸子牧師

     主イエスはわたしたちの救いのために来てくださる。何の力もなく、幼子として飼い葉桶に生まれてくださるお方です。救いは力によって実現するのではないことをわたしたちに教えてくれる出来事だと思います。
    主の御使いが「この子は、イスラエルをペリシテ人の手から救い始めるだろう」(士師記13:5)と預言したのは、旧約聖書に登場する英雄のひとりサムソンのことでした。ペリシテ人に圧迫されたイスラエルを救うために無双の怪力を振るサムソンの物語は痛快な歴史劇のひとつです。しかし、そのサムソンもまた非業の死を遂げたことを聖書は伝えています。無数の敵を撃ち殺したにもかかわらず、力による救いや力による平安はついに訪れることがありませんでした。

     一方、マタイによる福音書の中にはもうひとりの救いの先駆者であるバプテスマのヨハネが登場します。主イエスに一番近い人は誰だったでしょう。ある意味でヨハネだと言えます。バプテスマのヨハネは、ガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスが妻と離婚して、自分の兄弟フィリポの妻ヘロデヤと結婚したことを、律法に違反していると非難したため、捉えられて投獄されていました。ヨハネはイエスを指さし、証ししました。「私より力のある方が、私の後に来られます」と。しかし、牢屋に閉じ込められた今、この核心に満ちた、激しい預言者の姿はどこにあるのでしょう。ヨハネは牢の中で、いつ殺されるかわからない極限状況の中で、不安を覚えていたであろうと思います。

     今日の場面では、そのヨハネが弟子を遣わして、イエスに不思議な問い合わせをしたことが伝えられています。「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか」(3節)。すなわち、「あなたが私の予告をしていたメシアなのか」と・・・・・・。奇妙なことです。ヨハネは「先駆者」であり、後からやって来られる救い主を予告しながら、その救い主がそもそもどういう存在なのか、実はよくわかっていなかったということです
    「彼は来たるべき方」という表現をしていますが、当時のユダヤ人たちは、やがていつの日かメシアが来ると信じていたので、彼らにとってこれはメシアを指す表現でした。ある人は、こういうふうに言います。「ヨハネは、他の誰よりもすべてをここに賭けるために、主イエスに対して、誰よりもすべてをここに賭けたために、主イエスに対して、誰よりも真実な問いを発せずにはおれなかったのだ」と。イエスが私の唯一の望み、唯一の祝福である。クリスマスは、年中行事には終わらない。ここに自分の祝福があると信じる者にとっては、そのような問いが一度生じるということはあり得ること。イエス様が私に、この自分の人生の中で何をしてくれているのか。そういう問いと問うことは一瞬もないと言える信仰者はないと思います。

     そのような思いでヨハネの弟子たちが、自分たちがひたすら待ち続けていたイエス、今生きておられるイエスに向かって「来たるべき方は、あなたですか」と問うてなぜ悪いか。攻められるべきことではないでしょう。この「来たるべき方」と訳されている言葉は、もう一つの訳し方をすれば、「きたりつつある方」です。

     イエスはヨハネの弟子たちの質問に対して、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」(4節)とありのままにヨハネに報告するように、と答えています。ヨハネには正確な情報が不足していたのでしょう。それで、具体的に「目の見えない人は聞こえ、死者は生き帰り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(5節)という事実を伝えるように言ったのです。これはイザヤ書第35章5,6節、第61章1節に預言されているメシアの活動がイエスにおいて成就されていることを示すものでした。

     イエスは、単に病人が癒されるということだけではなく、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている事実を付け加えました。これはメシアによる新しい時代の到来を示す、何よりの証拠でした。ヨハネは、イエスが火によるバプテスマによって罪を悔い改めない者たちをさばくことを予想していましたが、イエスはむしろさばきよりも、福音を宣べ伝えたのです。
    最後に主は、「私につまずかない人は幸いである」(6節)と言われました。イエスは、この決断的信仰には、つまずきがあること、このつまずきを超えてゆかなくては、真のキリスト告白にならないことをお示しになるとともに、迷う信仰者に「どうかわたしにつまずかないように」と祝福してくださったのです。

     イエス・キリストはヨハネの思いを超えている。そう、この救い主の存在と働きはもはやヨハネの想像力の中にはおさまらないのです。救いは人間の力によって生まれるわけでもなければ、天から下ってすべてを焼き尽くす裁きの炎によって実現するわけでもありません。一人一人に向き合い、地道に、しかし、確実に「ひと知れずはたらいて 音もなく世を変える」(『讃美歌21』397)福音宣教のわざこそ、この救い主のやり方でした。
     貧困や戦争があり、多くの人々が周縁に追いやられている現実にもかかわらず、待降節は、私たちの中に希望を目覚めさせ、この希望を日々の生活の中で具体化するようにとの呼びかけが続いています。傷ついた葦、折れんばかりの葦を折ることなく、消えそうな灯心を消すことなく、これを活かす者は、主イエス以外の誰でしょうか。この主イエスのお姿につまずくこと、腹を立てることなく、いや、むしろそこにこそ、今ここに生きる私たちを生かす、神の真実が集中して現れることを見出し得る者はさいわいです。お祈りをいたします。