主の栄光が現れる
2024年12月29日
イザヤ書60:1~6、マタイによる福音書2:1~12
関 伸子牧師
「起きよ、光を放て。あなたの光が来て 主の栄光があなたの上に昇ったのだから」(イザヤ60:1)。私たちに主の言葉をもたらす光は地を覆う闇を撤退させます。あらゆる民族がこの光のもとに集まって来る。全ての人が主の弟子となるように招かれています。
この新しい光を見、神の業がなされるとき、人は驚くほどの努力をすることができるのです。東方の博士たちは、遠い道のりを苦労してエルサレムにやってきました。この驚くほどの新しい恵みの光にふれて、足をふみしめて、けわしい道を歩き、多くの谷や河をのりこえて、救い主のもとにはせ参じたのです。恵みに動かされた人は、決してじっとしていません。どんな道もこの恵みによって導かれることを信じ、勇気をもって進みます。
「博士たち」と訳されている言葉は、原文は「マゴス」という言葉です。ある人たちの解説によると、英語の「マジック」という言葉の語源となった言葉だと言います。言ってみれば「魔術師」です。そして、明らかにこの「博士たち」は、書斎に閉じ籠って立派な本を書く学問的な博士というよりも、星を見てやってきたというのですから、星占いの先生でもあったと言うこともできるのです。
博士たちはこう問います。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。その方は、どこにおられますか、と為政者ヘロデ王のところに表敬訪問をして問うのです。東の方というのはペルシャの国、現在ではイランに相当します。「ユダヤ人の王」、博士たちは救い主をこのように呼びます。聖書で「王」は、支配・守護・勝利を現わしています。この「王」の支配は、この世の為政者の支配に一つの挑戦をしています。いつわりの支配、暴力の政治、これが地上のヘロデ王の姿でした。イエス・キリストの誕生は、この支配に向かっていきます。もちろん、武力によってではありません。神の言葉によってです。わたしたち信じる者はイエスを王としているでしょうか。イエスの御言葉のとおりに生きているでしょうか。イエスが王であるとはその御言葉に導かれ、従って生きる者とされることです。
もうひとつ知らなくてはならないことがあります。マタイによる福音書で、イエスが「ユダヤ人の王」と呼ばれるところは、ベツレヘムと十字架のところです。ルカは誕生を家畜小屋としています。遠くからの星が先に立って導いた場所は、輝かしい栄光の場ではなく、貧しく、小さく、弱いところでした。そのような場所に良い知らせが伝えられたのです。
聖書は告げます。「決して最も小さな者ではない」と。ミカ書第5章2節は「最も小さな者」となっていますが、イエス・キリストにおいて「最も小さい者のひとり」が覚えられている。イエス・キリストの福音は、この地上の最も小さい者に光をあてて、それを「小さくない」と言うのです。「神が私たちと共におられる」からです。この世の者たちが「小さい」と言って投げ捨てるものを、神は「小さくない」といって拾い上げます。クリスマスとは、そのように逆さまなことが起こる時です。貧しい者が豊かにされ、富んでいる者がむなしくされます。だから今、わたしたちは小さな者として神の子キリストのもとに集まっているのです。
ところが、「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)。イエスが生まれたということは、ヘロデ王やエルサレムの人々にとっては不安なことでした。博士たちも、イエスを拝みに行くとき、長い道中を考えて不安を感じたのではないでしょうか。祭司や律法学者たちもベツレヘムに行かなかったのは何か不安を感じたからだと思います。
ヘロデは突き止めた新事実を手にすると博士たちを呼び寄せ、手抜かりなくこう言うのでした。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから」(8節b,c)。しかしこれは外交辞令であって、ヘロデにはその気はまったくありませんでした。なぜなら新しい王の出現は自分の地位を脅かすことに他ならなかったからです。マタイは「ユダヤ人の王」という称号を、特に十字架につけられる主椅子に使用しています。イエスは罪から人を救うために十字架に向かって歩む王です。ヘロデにはそのような幼子の誕生の意味が見えません。ヘロデと占星術の博士たちの態度の相違は、幼子の誕生を迎える読み手にもどちらの態度を取るかの選択を迫っている。
エルサレムを出発してベツレヘムに向かう占星術の学者たちは、故国で見た星を再び目にして喜びます。星の下では幼子が母マリアに抱かれています。この幼子こそ闇に輝く光です。彼らの喜びは幼子との出会いにおいて最高潮に達します。それは真に礼拝することのできるものを発見し、身を献げるものに出会うことができた者の喜びです。
人を生かす王に出会った博士たちは、もはや人を殺す王のもとには戻らず「別の道を通って」帰途につきます。幼子との出会い、幼子イエスを礼拝することによって、博士たちは幼子が示す新しい道に向かって歩み始めたからです。博士たちは、キリストと出会いたいと願うすべての人たちの代表です。人の世は理不尽なことが繰り返されますが、神様は放っておかないという希望を思い起こします。
今から17年前、日本聖書神学校のクリスマス礼拝でこの御言葉を聞いて、「私も別の道を通って主に仕える道を選びたい」と思いました。確かに今も星は輝いています。私たちも主と出会えばこのように道を変更することが起こります。そのことを不安に思うのではなく、神が共にいることを信じて喜びたいと思います。お祈りをいたします。