さあ、ぶどう園に行きなさい
2025年1月12日
イザヤ42:14-25、マタイ21:28~32
松本 雅弘牧師(あさひ教会協力牧師)
「問われていることを知らないと、信仰はよく分からない」、ある牧師がそのように話していました。そして、今日の譬えで問いかけられているのは、「神の望みに生きているか」、「神の望み、神の御心が分かるか」と問うておられるように聞こえてきます。
弟のように「はい」と正しい答えをしたとしても、問題はぶどう園に行くのかどうか。「ぶどう園」が意味する、神の国、慈しみ深い神の御心の支配に自らを委ね、任せて生きるかどうかが問われてくるからです。
神の御心を信頼しない人がいます。でも最初「いいえ」と答えても、後になって考え直し御心に生きようとする人もいる。それぞれの代表として祭司長・長老たちと徴税人・娼婦たちを比較し、「よく言っておく。徴税人や娼婦たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入る」と断言された。考えてみますと大変な発言でしょう!
徴税人とはユダヤ人からしたら裏切り者です。その徴税人と娼婦です。そうした人たちの方が神の国に入る。でも何故? 徴税人や娼婦の方が、祭司長や長老たちに比べて、どれだけ行いにおいて優れていたのでしょうか。徴税人、娼婦たちが祭司長や長老たちよりも、よほど善いことをしたからでしょうか。それを解く鍵が32節にあります。そこを読みながら、ルカ福音書7章に登場する娼婦のことが心に浮かびました。こう書かれています。
「この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家で食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。」(ルカ7:37-38)
罪の女が香油を持って来て主イエスに塗る。それも食事の席です。彼女の行動は極めて不自然。居合わせたファリサイ派のシモンは主イエスを試すために何も言いませんでした。ただ口には出していませんが心の中でイエスを軽蔑し非難していました。すると主イエスが、「シモン、あなたに言いたい事がある」と言って一つの譬えをお語りになります。どんな譬えか、と言えば、借金をしている者が二人いて、一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンの借金。二人とも返済できずに困っていたところ、金貸しは両方とも帳消しにしてやった、という話です。
話し終わると、主イエスはシモンに尋ねます。「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」と。分かりやすい質問ですから、即座にシモンは答えます。「帳消しにしてもらった額の多いほうだと思います。」
正解です! しかし結果的に、シモンは自分が答えた言葉で自らが裁かれていく。正しい答えが分かっても、その答えを体現できていない。愛の人への変えられていない。なぜ?! 神の愛を頭で理解したとしても、腹に落ちていない。実感できていないからです。
イエスのところにやってきた娼婦も、主イエスの愛に触れ感激していたのです。ですから感謝の涙でそのお方の足を濡らし、髪をほどいてそれを拭い、さらに高価な香油を塗って主への愛を表した。非常識な仕方でしたが、それが彼女の主への愛の表し方だった。主がまず彼女を愛してくださったから。彼女は心の底から、主イエスの赦しの愛、無条件の愛を実感していた。「徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入」っていた。恵みの愛を実感していたので、具体的な行動が現れ出たのでしょう。
エリコに住む徴税人のザアカイも「ぶどう園」に招かれました。いちじくの木の上にいたザアカイを主はお招きになりました!招かれたザアカイは、大急ぎで木から降りて、喜んで主イエスをお迎えした。そして、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれからか何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言えた!そこでも「徴税人や娼婦たちの方が、先に神の国に入」ったのです!
ところが、先ほどのシモンも、そして今日の箇所に登場する祭司長、長老たちは、考え直して「ぶどう園」、慈しみ深い神のご支配に身を委ねようとしない。何故でしょう?他に比べて自分はマシだと考えるからです。神の瞳に映っている自分の姿を見失ってしまっているからでしょう。ともすると私たちは、目に見える世界だけに心奪われ、そこに神さまの臨在やご支配を見失い、存在の根拠をなくしてしまう。その結果、人と比べて私の方が礼拝を大切にしているから大丈夫、奉仕をしているから大丈夫。今までの自分の経歴や経験や実績をもって、どうにか自分を保つ。心の深いところで、隣同士が競争し合い、隣に比べてどれだけマシかで安心する。そうした生き方は、「ぶどう園/神の国」の外にいる人の生き方、あり方でしょう。
「神さまが愛してくださっているがゆえに、私は存在している/生きている」。愛の神さまが私たちの存在の根拠だからです。「ぶどう園/神の国」とは、無条件の愛で、あるがまま、そのままの私であることを許すキリストの福音の恵みが支配する領域です。その「ぶどう園」に、「さあ、ぶどう園に行きなさい」と主は招いておられる。私たちは、そのお方の招きに応じて、生活のすべての領域において、神のご支配を受け入れ、日々、歩みを進めていきたいと願います。祈ります。