カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主の恵みの中へ

    2025年8月3日
    創世記21:9~21、マタイによる福音書8:1~13
    関 伸子_牧師

    マタイによる福音書第7章の終わりに、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者のようにお教えになったからである」(7: 8,29)とあります。新共同訳は「非常に驚いた」と訳しおり、仰天する、啞然とするとも訳せる言葉です。マタイによる福音書では、常にイエスの教えと結びついて用いられています。私たちの経験や学問や創造などでは考えられないような神の業に群衆は驚いたのです。

     ところが聖書は、すぐに「すると、規定の病を患っている人が近寄り、ひれ伏して、『主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります』」と書きます。「すると」というのは大事な言葉です。みな、イエスの教えに感動し、喜びに満ちて山を下ります。しかし、そこには規定の病を得て苦しみ、差別された人たちがおり、また中風の人がいます。山を下りたら、この世の現実が渦巻いているのです。

     私たちも実際そのような信仰生活をしているのではないでしょうか。日曜日の朝、礼拝堂に入り、オルガンの音に心を落ち着かせ、賛美歌を歌い、聖書を読み、説教を聞くことによって、心が穏やかになり、この世のどこでも経験できないものを経験します。しかし、ひとたび教会の玄関を出て外に出ると、そこには、問題が山積みの現実の世界があります。そういう中で生きる者たちにとって主イエスとは、また信仰とはいったい何なのでしょう。

     「規定の病」というのは、新共同訳では「重い皮膚病」と訳しており、ヘブライ語では「ツァラアト」、ギリシア語では「レプラ」という言葉です。口語訳聖書では「らい病」となっていました。当時のユダヤ人社会において、らい病は人々から最も嫌われている病気の一つでした。これは汚れた病気とされ、この病気にかかった者は隔離されて、町の外に住まなければなりませんでした。 この規定の病の人は、「主よ、お望みならば、私を清くすることがおできになります」(2節)と言いました。この人はイエスの名声を聞いていたたまれず、人前に出てはいけないという禁制をも破って、イエスの前に姿を現したのです。そして、ぶしつけに「直してください」と自分の願望を主に押し付けるようなことはせず、みこころならば私を直してください、と言ったのです。どこまでも謙虚な姿勢でした。自分の意志よりも神のみこころを第一としたのです。そのうえ、「私を清くすることがおできになります」と、イエスのメシアとしての力を認め、信じていたのです。主イエスはこの人の信仰を認めて、手を差しのべてその人に触れ、「私は望む。清くなれ」(3節)と言って、規定の病をいやされました。
     規定の病の人のいやしの後に百人隊長のいやしの物語が続きます。これはカフェルナウムで起こりました。カフェルナウムはガリラヤ湖のほとりにある町で、イエスはここを中心として伝道活動をしておられました。ここにはローマの駐屯部隊がいました。「百人隊長」は、そのようなローマ軍の軍人であり、百人の兵士を指揮する隊長でした。この人は異邦人でしたが、ユダヤ人にもまさる信仰を持っていました。この信仰は、イエスの語る言葉が必ず実現すると信じる信仰であり、イエスが、自らの言葉をすべて実現できる神のような方だと信じる信仰です。

     「私も権威の下にある人間ですが、私の下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、僕に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」(9節)。百人隊長は、部下に対して「行け」と命令すれば、部下が行くことを知っていました。しかし、軍隊における絶大な権威も、この愛するしもべの危機に何の役にも立たないのです。しかし、この百人隊長の生活の中における、苦境、破れが、信頼の関係を思い出させ、イエスのもとにはせ参じさせたのです。ここには、「見ないで信じる信仰」があります(ヨハネ20:29)。それは、「お言葉どおりに、この身になりますように」(ルカ1:38)と言ったマリアの信仰でもあります。
    そして今や、イエスに「行きなさい」という命令を受け、そのとおり出て行き、自分の家で苦しんでいたしもべがいやされたことを知ったのです。

     主イエスは「これを聞いて驚き」とあります。百人隊長の言葉を聞いてびっくりなさったのです。その言葉、「これほどの信仰を見たことがない」と訳される「見る」、この言葉は、別の訳し方をすると「発見する」という言葉なのです。主が信仰を発見されたです。1節から13節において大切な主題です。主イエスの側からいえば、主イエスの信仰の発見の物語なのです。
    主イエスが百人隊長に、「行きなさい。あなたが信じた通りになるように」(13節)と力ある言葉をかけられると、不思議なことに遠く離れたところにいる僕の病気はいやされました。主イエスの言葉どおりになりました。

     百人隊長の願いの成就は、自分たちの主が霊によって助けてくれることから今を生きる私たちの教会に対する約束となります。信仰とはこのように神の言葉に対して真剣に生きていくこと、真剣にそれを信頼していくことです。
    みなさんはこれらの奇蹟の記事を通して、主イエスがどのようなお方だと考えますか。主イエスが私たちに求めておられるのは信仰であって、どこまで神を信じ、神の言葉に真剣に生きていくかということです。私たちの現実は、山上の説教の現場ではなくて、山から下りてきたところにあります。その厳しい現実の中で、主イエスに出会い、神にしっかりと依り頼み、期待するのです。そのとき、私たちは神の御業をみることができます。祈りをいたします。