カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主イエスの願い

    2025年8月17日
    ヨナ書43:1~5、マタイによる福音書19:35~38
    関 伸子_牧師

     主イエスがガリラヤ全土で人々の病をいやしたことは、山上での説教の箇所の前、マタイによる福音書第4章23節にも記録されていますが、今日の箇所では、イエスの活動を、「教え」「宣べ伝え」「治された」という三つの面からとらえています。イエスはこれらの伝道活動を通して、民衆の置かれている窮状を見て、深く憐れまれました。

     「町や村を残らず回って」とあります。イエスの行動の動機はいつも「憐れむ」ことです。「深く憐れむ」と訳された言葉は、もともと「はらわた」を意味する名詞スプランクノンから派生した動詞で、当時は内臓が人間の感情の源であると考えられていました。イエスは、群衆に対して同情に生きてくださったのです。そのおろかさを軽蔑することもせず、その愚かなことしか言うことのできない人々の惨めさに、自分の肉体が、心が、切り刻まれるような、思いを抱かれたというのです。これはどに、はらわたが痛むほどに、愛を注ぐ神というのは、当時の人の知らない神の姿でした。当時の世界の知恵者、ギリシアの哲学者も、知らなかったこと、想像もつかないことでした。福音書の用語はギリシア語です。しかし、ギリシア人は、この言葉で、神について語ったことがなかったのです。むしろそれを拒絶したのです。なぜかと言うと、心を痛めてしまうような神は、自分をそのように苦しめるものに振り回されることになる。神が、自分に悩みを負わせる者に振り回されるというのは全く神さまらしくない。頭の中でそう考えて、あらゆるものを超越している神には、同情に心を痛めるなどということはあるはずがないと考えたのです。

     このギリシア人の考え方は、良く分かります。神だけではないでしょう。私たち人間もそうです。私たちは本能的に、同情によって、心がとことんまで動かされることを拒否するところがあります。あるところまでは同情するけれども、それ以上、他者に踏み込まれることは拒否するのです。ここで、はらわたが痛むほどに、主イエスがあわれみを抱かれたということは、この人々の愚かさの中で、自分自身が踏みにじられることを、お赦しになったということです。人間には、こんな深い憐れみの心はありません。私たち自身正直に認めなければならないことなのです。それが、すでに私たちの罪です。

     主イエスは、心の底から憐れまれたのです。イエスは、羊飼いからはぐれた羊のように疲れ果てた群衆を「見て、深く憐れ」みます。14章14節でも船から上がったイエスが「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人を癒された」と記されています。イエスが弟子たちを派遣するのは、この活動を継承させるためです。これは大きな緊急課題であるので、イエスは、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝える」(10:7)ために、弟子たちを招き集めます。イエスの弟子は、まずは「異邦人に証し
    をする」という場に置かれます(10:18)。次に、「神の国はあなたたち(ユダヤ人)から取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられ」(21:43)、「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」ことになります。そして福音書の最後で、復活のイエスは弟子に、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じます。

     「救い」はまずユダヤ人に告げられ、それから異邦人に広げられてゆきます。12人の弟子による宣教は、民族を超えた「新しいイスラエル」としての教会として結実してゆきます。神の愛は今もすべての人に向けられているからです。

     先ほどヨナ書第3章を読みました。神の召命を拒否して、神が示した道とは逆の方向へ逃走したヨナ。そのような預言者が神の大切な言葉を伝える器として用いられます。そして、イエスを理解することなく、全く頼りなかった12人の使徒たちが、宣教の業のために遣わされ、それぞれに与えられた場所で困難の中にある人々の病や患いを癒します。

     私たちは、自分自身がまったく神の言葉を伝えるのにふさわしくないと考えています。しかし、神はいにしえの時代から、ふさわしくないと思われる者を御自身の宣教の業へと招き、そして遣わされる方でした。そのような人々が、神の言葉を語り、教会を建て、神の愛をこの世界に告げ知らせてきたのです。だから、私たちはすこしも落ち込むことはないのです。「自分なんか・・・・・・」と気おくれする必要はないのです。そのような人々を用いて宣教させるのは神御自身であり、それを前進させるのは聖霊です。

     「収穫は多いが・・・・・・収穫のために働き手を送ってくださるように」。この「収穫、「刈り入れ」という言葉は、もとは「神の審き」を意味したのです。刈り入れは、とくに、この土地においては、何よりも麦刈りでした。麦を育てて、その麦を鎌で刈り取るのです。根本から刈り取っていくのです。それと同じように、神が人々を審くのです。

     しかし、御国の福音を宣べ伝えること、それが、主イエスの働きであったと福音書は語り、そして、弟子たちもまた、その仕事をしたのだと語ります。「福音」、それは喜びです。喜びの知らせです。私たちの愚かさは刈り取られるかもしれません。けれども、それは私たちを滅ぼすためではないのです。私たちを生かすためです。だからこそ、私たちの愚かさを根絶しながら、私たちをその愚かさの中から解放してくださる神の刈り入れのわざが、始まるのです。神の大いなるわざが始まるのです。私が祈るのは、この愚かな人々が滅びることではない。あなたがたが、愚かさの中にうずくまったままで滅びてしまうことではない。私の憐れみを、私のこの痛みを、少しでも知ってほしい。この痛みを分かち合う者になってほしい。主イエスはそう願っておられるのではないでしょうか。

     ここから12人の弟子選び、そして弟子の派遣へとつながっていきます。この物語の終わりが新しい物語に続きます。私たちの教会が、この主イエスの願いを共に分かち合い、伝道の幻に生きたいと思います。主イエスの願いを分かち合う喜びを知って生きたいのです。お祈りをいたします。