カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストを着る

    2025年8月24日
    イザヤ書30:18~21、ガラテヤの信徒への手紙3:26~30
    朽木 順子_長老

     私は、日々の生活の中で、どう判断したらよいか、或いはこの判断で正しかったのだろうかと、しばしば悩みます。
     
     今日、与えられたみ言葉は「ガラテヤの信徒への手紙」第3章26~29節です。今日はこのみ言葉を皆さまと共に分かち合いたいと思います。

     あなたがたは皆、真実によって、キリスト・イエスにあって神の子とされ、キリストに与る洗礼を受けたあなたがたは皆、キリストを着たのだと言われています。ユダヤ人もギリシャ人もない、奴隷も自由人もない、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つなのだと言われています。

     今、世界を見れば、対立と分断があります。どうして一つとなれるのか、キリストに与る洗礼を受けた者は、キリストを着る者になるとはどういうことなのでしょうか。

     エフェソの信徒への手紙第2章14~16節には、こう書かれています。
    「キリストは、私たちの平和であり、二つのものを一つにし、ご自分の肉によって敵意という隔ての壁を取り壊し、数々の規則から成る戒めの律法を無効とされました。こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り変えて、平和をもたらしてくださいました。十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです。」

     イエス様は、神さまと私たちを遠ざける、私たちの中にある敵意という隔ての壁を、十字架によって、打ち壊し、新しい一人の人へと造り変えてくださいました。

     先日夢を見ました。腕や手にいくつもの小さな棘が刺さっているのです。ようやく全部の棘を抜いて、ああ良かったと思ったところで目が覚めました。これはどういう意味なのだろうと考えました。この棘は人と自分を比較し隔てる壁、共に生きることを隔てる壁なのではないかと思います。囚われていることから自由にされ、本当は、互いの違いを尊重し、尊敬し、共に生きることを喜ぶようにと神さまから召されているのではないかと思いました。

     イエス様はどう生きられたのでしょうか。

     イスラエルの中でも蔑まれていたガリラヤの地にあって、イエス様は病んでいる人、苦しんでいる人、蔑まれ差別されていた徴税人や、罪深いとされた女性の所に行き、傍らに立たれ、癒され、最後には、全ての罪を背負って十字架に架かられました。
     私たちは日々の生活のあらゆる場面でイエス様ならどうされるだろうかと問われます。

     イエス様はこう言われました。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい』『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ第22章37~39節)また「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち私にしたのである」(マタイ第25章40節)と。このみ言葉を聞いて、そうしたいと願いつつそうできない自分がいます。

     そのような私をも、神さまは赦し愛して下さる。イエス様は「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ第10章45節)と言われました。その愛に満たされて、私たちも愛によって互いに仕えあう者として、この世へ、一歩押し出されるのかもしれません。パウロはローマ書の中で「この希望が失望に終わることはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」(第5章5節)と語っています。

     一昨年、夫は先に旅立ちました。夫は平安に満ちた顔を私たち家族に残し、天に召されました。悲しさ、寂しさ、空しさ、心の中に波が立ちますが、不思議に、いつか静かな平和が訪れます。神さまが平安を与えて下さっているのだと思います。

     「足あと」と言う詩をご存知の方も多いと思います。週報にこの詩を挟み込んでいますが、こういう内容です。

     神さまが共に歩んでくださって、神さまと私と言う二つの足あとを残してきた人生が、その最も辛い時に、気づいたら足あとは一つだった。なぜお見捨てになったのですかと問う私に、「主はささやかれた。『私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみ、試みの時に。足あとが一つだった時、私はあなたを背負って歩いていた』」私たちはみなし児でも独りぼっちでもないのです。神さまの愛の外に置かれることはありません。

     イエス様は「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(ヨハネ15章5節)と言われました。「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です(ガラテヤ書第5章22、23節)。私たちは、教会と言う信仰の共同体の中で育まれています。どんなに小さなことでも、イエス様ならどうされるだろうかとの愛の物差をもって見つめ、生活の中でそれを行い、神さまにお献げする者とされたいと願います。

     キリストを着るとは、イエス様を見上げ、イエス様につながり、イエス様の愛と恵みに包まれ、そのキリストによって生かされることと思います。お祈りいたします。