カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストは今ここにおられる

    2025年9月21日
    エゼキエル43:15~28、マタイ18:15~20
    関 伸子_牧師

     今日の箇所を含むマタイによる福音書第18章全体は、「教会の説教」とも呼ばれ、教会の交わりが、そのテーマとなっています。小さな、全体を見渡すことのできる共同体の中で、マタイの規則は実際に実行されました。

     「きょうだいがあなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところでとがめなさい。言うことを聞き入れたら、きょうだいを得たことになる」(15節)。ふつう「きょうだい」というと肉親や近親のことを考えます。血のつながりのある者ほど、うまくいかないといわれます。どうしてかというと、親しい者には期待が大きいし、利害が直接的という面もあります。また、毎日顔をつきあわせるので衝突する機会も多いでしょう。人は、ゆきずりの人と激しく争うことはあまりありません。

     しかし、ここで「きょうだい」というと、さらに信仰の友、教会員同士を指すのです。教会員が過ちを犯すことはあり得ることです。忠告して、その友が悔い改めるなら、その友は滅びを免れ、忠告した者は「きょうだいを得た」ことになります。しかし、忠告は直接本人に対して、しかもどこまでも柔和な心でなされなければなりません。決して人をさばくような態度でしてはならないのです。

     そこで大切なことは、主イエスが今、共におられるということです。そのことについての確信がないと、わたしたちが語ることばも空しいものになってしまうのです。聖書の言葉で言うと、霊において主イエス・キリストは、ここに、わたしたちと共にいてくださるのです。そのことがよく分かっていれば、他のどんな問題があっても、どんなことに疑問を持っていても、信仰は成り立つ。その信仰を持って目の前にある事柄に向かっていけるのです。

     マタイによる福音書第18章15節直前で、主イエスは、「小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなたがたの父の御心ではない」と説きましたが、この「滅びる」という語の反意語が「得る」であります。主イエスによると、信仰上のきょうだいが自分に対して罪を犯しても、そのきょうだいが従順に諭しを受け入れるなら、その人は滅びることがないのです。

     「すべてのことが、二人または三人の人の証言によって確定されるようになるためである」(16節)。自分に罪を犯すきょうだいが従順に諭しを受け入れないのなら、イエスは律法に基づいて、二人か三人の証人によって罪の事実を証言してもらうようにと命じます。これは、旧約聖書以来の伝統でした。「どのような過ちや罪であれ、人が犯した罪は一人の証人によって確定されることはない。人が犯したどのような罪も、二人または三人の証人の証言によって確定されなければならない」(申命記19:15)。冤罪を避け、その人の罪をできるだけ正しく裁くためです。二人か三人の証人の「口」が単数で表されているのは、複数の証人の証言が一致している必要があることを示すためです。

     さらにイエスは、もし、自分に罪を犯す兄弟が抵当な証言を持つ複数の証人たちにも聞き従わないのなら、教会に告知するようにと命じます。教会は、イエスが自分のことを「キリスト、生きている神の子です」と告白する人々のその告白に基づいて建てたものであり、死という滅びに打ち勝つ力が与えられています。

     イエス・キリストは、教会に「天の国」への鍵を授けました。「天の国」は、神様が直接支配される世界です。神様は天と地を創造されました。この地上世界においては、今なお、神の力以外の力が支配しているかのように見えますけれども、天上の世界においては、すべてがみ心のままに動いている。神の支配がはっきりと全面に出て、行き届いている。それが天の国です。だからわたしたちは、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈るのです。教会という場所は、この地上の世界にあって、天の国を、垣間見ることができるところです。それだけではなく、「天の国を経験する」ことがゆるされています。こういう力が与えられている教会の言葉にも、そのきょうだいが聞き従わないのなら、その人はもはやきょうだいではなく、異邦人や徴税人と見なされなければなりません。異邦人や徴税人は、偽善的な罪人の代表的存在であり、そのような者として交際をしてはならない相手のことです。

     主イエスは続けてこのように言います。「どんな願い事であり、あなたがたのうち二人が地上で心を合わせるなら、天におられる私の父はそれをかなえてくださる。二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」(18~20節)。地の上で縛ったり解いたりすることは、人々を死から命へと導くための救いを取り出す時に用いられる鍵を管理する権利であり、イエスの弟子たちに与えられたものです。

     イエスはこのような愛の忠告には、祈りが必要であると教えています。20節の「私の名によって」は、「我が名に向かって」と直訳できます。二人か三人の人々の願いがかなえられるのは、一人の人の勝手な願いではなく、父なる神の思いにそう場合ですけれども、神の思いに沿うためには、この願いがイエスへと向かってなされなければなりません。

     ただ「わたしの名によって集まる」ことが大切です。その時、主イエスは共にいて、真になすべきことを教えてくださるでしょう。大きな約束の言葉ではないでしょうか。このただ中におられる主イエスが、主の祈りを教えてくださいました。祈りの言葉を失ったならば、主の祈りを唱えたらよいのです。その時、わたしたちは、わたしたちの真ん中に立って、わたしたちの先に立って、この祈りを唱え続けてくださる、主イエスの姿を見出すに違いないのです。お祈りいたします。