カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 国籍は天にある

    2025年9月28日
    イザヤ25:6~10、フィリピの信徒への手紙3:17~4:1
    関 伸子_牧師

      今日は、皆さんと共に、天国について思いを馳せたいと思います。聖書は、その第1頁の最初に「初めに神は天と地を創造された」(創世記第1章1節)と記して、神が世界の創造者であることを明記し、神が支配される世界観や人生観をはっきりと私たちに示し、教えています。先ほどお読みしたフィリピの信徒への手紙第3章20節で、パウロは、人間は真の国籍を天に持つべきであることを語ります。

     「天国に私はまだ行っていないけど、素晴らしいところだ」とルーテル教会の牧師・キリスト教カウンセリングの指導者だった賀来周一先生はよく言っておられました。賀来先生今年の6月に94歳で天に召されましたので、今は天国でそのことを実感されているでしょう。しかし、この天国の素晴らしさは、死後でなければ経験できないことではありません。私たちは、すでに天国を仰いでいます。主イエス・キリストは、死後だけでなく、私たちは、この地上から天国に至る道をこのお方と共に歩んでいます。

     それを語るのが「わたしたちの本国は天にあります。そこから、救い主である主イエス・キリストが来られるのを、私たちは待ち望んでいます」(20節)というパウロの言葉です。「本国」とか「国籍」と訳されている言葉は、祖国、母国、ふるさととも解される、大きな保護と拠り所が浮かんで来る言葉です。この「本国」、「国籍」と訳された原語(ポリテゥーマ)は聖書の中にはこの一回のみ使われている珍しい言葉です。市民権とも訳せる言葉です。この天にある国籍を持ったものには、どんな悲しみや死の恐ろしさに対しても、それを乗り越える保証と力が与えられるのです。

     私たちの天に国籍をもつことを証するパスポートとは何でしょうか。私たちが地上の国に属するのでなく、天上の国籍を持てるのはどうしてでしょうか。それは端的に洗礼だとも言えます。しかしさらにパウロの確信から言えば、そのパスポートとは、「私にとって、生きるとはキリスト」(フィリピ1:21)と言われているように、キリストご自身が私たちの命であり、私たちと一体化して下さるキリストがパスポートなのです。天に国籍を持って、はじめて救われた人間、すなわちまことの人間になるのです。

     天の国から発給されるパスポートは私たちの力によるのではなく、キリストが十字架につけられ、私たちの罪のために死なれ、そして復活されたことにより、つまり、キリストが生涯をかけ、神の御心に従った労苦によって私たちに与えられた特典がこのパスポートです。これが、どのような逆境、苦境、そして死に対しても私たちの身分と命を保証し、守るのです。パウロは復活という目標を目指して追い求めていますが、それは神によって完成へと導かれるものですから、言わば復活の原型である救い主イエス・キリストの到来を待ち望むのみです。そのキリストと向き合うことによってのみ、人は自分自身も栄光から栄光へと変えられるのです。

     パウロは「栄光ある体」に変えられると確信していますから、「私が愛し、慕っているきょうだいたち、私の喜びであり、冠である愛する人たち、このように、主にあってしっかりと立ちなさい」(4:1)と勧めるのです。キリストの日におけるパウロにとっての信徒たちの意味を、「喜びであり、冠である」と言い表します。それはパウロにとってのキリストの日における光景なのです。パウロは無駄に走ったことにならないでしょう。

     「天の市民」になることは、私たちの地上における日々の行動の規範が何であるかを知っているということです。パウロがフィリピにいる友人たちに語るのはまさに、彼らが、パウロが教えたように主イエスやパウロ自身の証言に従って生きていないのではないかとう点です。それゆえに、「主にあってしっかりと立ちなさい」とパウロは求めます。これは、イエス・キリストの中にあって、しっかりと立ちなさいと言う意味です。わたしたちが自分自身や、自分のもっている物、あるいは回りの意見に立っているなら決してしっかり立つことはできなくなります。欲張った考え、お金や物、権力など、いろいろなものに動かされてしまうからです。堅く立つ人とは、イエス・キリストの中にあって、ただ神のみ旨によって立つ人です。

     ここに写真のある友たちは天の故郷に帰られました。今でも心にぽっかり穴があいたような気持ちや悲しみを繰り返しますが、神の慰めがみなさまと共にあり、空虚さは満たされ、涙がぬぐわれる時が、その先にあることを祈ります。思い出や記憶が、ちょうどよいところに向かって整えられていくという信頼に生きることが、この世に残された者の責任です。そして、わたしたちも、「国籍は天にある」という確信を与えられて、希望を持ち、主によってしっかりと立ち、すでにわたしたちのところに届いている神の国の市民としてこの地上を歩むことができるさいわいを感謝します。神に愛され命をいただいている者たちとして、常にキリストを信じ、キリストの出現を待ち望みつつ地上の生涯を歩みたいと思います。お祈りいたします。