カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 主に従うために

    2025年10月5日
    詩編119:33~40、エフェソの信徒への手紙5:1~5
    関 伸子_牧師

     エフェソの信徒への手紙第5章1節に「神に愛された子どもとして、神に倣う者となり、愛の内に歩みなさい」とあります。私たちは神に愛されている神の子どもなのです。私たちは神の愛を体験的に知った時に、神の子とされ、自分が愛されていることを自覚した時から、神を愛するようになったのです。

     それでは、見えない神を愛するとは、どういうことなのでしょうか。「神の戒めを守ること、これが神を愛することだからです。その戒めは難しいものではありません」(ヨハネ一4:3)。また、「きょうだいを愛する」(ヨハネ一4:21)ことでもあると言われています。したがって、「神に倣う」とは、言い換えれば、「愛の内に歩む」(5:2)ことなのです。

     「神に倣う者」、この表現は、聖書においてここ以外にしか見られません。旧約聖書において神の導きに従い歩むことが語られ、新約聖書においては、キリストにならうことが教えられています。また、第5章1節の前後には、キリストによる赦し、キリストの愛の犠牲が語られています。

     「神に倣う」は、キリストにならうこと、と理解すべきと思います。しかし、倣う、つまり、まねをするということは、とてもできることではありません。ある人が、これは、まねをするということではなくて、応じることであると言いました。しかし応じるという以上は、相手が何かをする、それに対して、それに見合うようなことをするということになるのではないでしょうか。救われたのなら救われた者らしく、生きる、それが応じる、ということです。

     続いて、聖徒にふさわしくあるならどういう生活をするのかが3,4節で語られています。それはどういう生活なのでしょうか。第一に出てくることは不品行。パウロは驚くほどたびたび語っています。それは教会だからこそということでしょう。教会の者は選ばれた民として、他の人には許されることでも許すことができなかったのでしょう。

     その次に、興味のあるのは、「恥ずべきこと、愚かな話、下品な冗談もふさわしくありません」と続きます。私たちの口をついて出ることはなんと身勝手な言葉ばかりであることか。口について言われていることは、人間の生活にとっては、大変重要なことになります。口に出したことは、取り消すのに困難するほどその人の生活、心に関係がある、と考えられるからです。教会の生活のはじめとして、人間の一般の生活について特に注意していることは、性の問題と貪欲のことを口にする生活のことです。これらのことが、信仰生活について、極めて重要なことを深く知りたいと思います。

     このような話のあとで、感謝が出てきます。突然、感謝が大切である、と言うのはなぜなのでしょう。パウロは多くの場合に、感謝しなさい、と言いました。すべての事について、感謝しなさいと言ったほどです。信仰生活は喜びを感じることであると言います。どんなことにあっても喜ぶことができることです。しかし、感謝のない喜びはないはずです。与えられたどのことについても感謝することができる時に、初めて喜ぶことができるのです。また、感謝とは、キリストの恵みを見出すこと、恵みを数えることです。「むしろ感謝の言葉を口にしなさい」(エフェソ5:4)。常に他者への感謝を語り、神を賛美する人のなんとよき香りを放っていることでしょう。「香りのよい備え物」となられたキリストのように。美しくない言葉をまき散らすこの私もそのような言葉を口にする者となれるだろうか。なれるはずです。なぜなら私たちは神に愛されている子どもなのだから。私たちは慈愛に満ちた神の豊かな愛の中で育まれているのだから!私たちは祝された子どもなのだから! 

     愛のうちに歩むというのは、人を愛する生活ということだけでしょうか。それだけではなくて、愛を生命として生きている、ということではないかと思います。今、具体的に、誰かを愛するということではなくても、神に愛され、神を愛して生きている喜びを持っていることです。その心に、いつも神からの愛を受けており、神を愛していることでしょう。このようにして、愛のうちに歩くというのは、愛によって生きることです。神の愛によって生かされるのです。その時、自分も、不完全ながら、愛を行うことができるのです。

     カルヴァンは、この箇所を読むのに、第4章32節後半からつづることにしています。それは「互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい」というのです。キリストが、ご自分をいけにえとしてささげてくださったことによって、私たちは愛のうちに生きることができる、それが互いに愛しあうことにもなるのである、ということになるのです。

     愛の内に歩くということが、聖書では、いかに人間の根本的な生き方になるかということが分かるのです。私たちのような者が、神に愛されている子どもにされたのです。それで、愛によって生きる生活ができるようになったのです。そのために、キリストが私たちの罪のために、いけにえになってくださったことが、神にとっては、まことにこうばしい香りになった、ということです。

     私たちが、どのようなときにも神の愛の中にあることを忘れず、祈り続けるなら、語るべき言葉は必ず与えられるに違いありません。そのことを信じて、神に倣う者であることに感謝する日々を送りたいと思います。お祈りをいたします。