神を知らない時・知る時
2025年11月16日
イザヤ書46:1~7、使徒言行録17:22~29
潮田 健治_牧師(隠退牧師)
「パウロは…この町の至るところに偶像があるのを見て、憤りを覚えた。」とあります。偶像とは、目に見えない神をイメージして石や木に刻んで形に現したもののことです。だから、人間が、これが神だと思うものをイメージすれば、人間の数だけ偶像が出来ることになります。そう考え始めるともう大変で、日本では家を建てるに際しては、そこにいるかもしれない「知られざる神」を怒らせてはいけないと「地鎮祭」をして、まず土地の神さまを鎮める、ということをします。家を持つことが出来た感謝、ではありません。悪いことが何事もないようにという不安が根底にあります。ですから「偶像があるのを見て、憤りを覚えた」という憤りという言葉は、魂が揺り動かされるという言葉で、他の「宗教」を見て、あんなの宗教ではないといって憤慨したのではありません。偶像が溢れているということに、人間の恐れや不安を見、痛みを感じた、というのです。22節「信仰のあつい」と言いますが、信仰というより、それは単に「宗教心」と言うのかもしれません。「信仰」とは、対象への「信頼」を意味する言葉です。対象が分からない「宗教心」は、恐れや不安を伴っています。信頼して感謝する信仰、平安をもって生きる信仰とは別物なのです。「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを私はお知らせしましょう。」人は、とても宗教的だったかもしれない。しかしそれは信頼する対象をもたないから、恐れや不安にとらわれているということを見抜いたのです。
「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主…、すべての人に命と息と万物とを与えてくださるのは、この神だからです。」
神に生かされているのだから、感謝こそすれ、その神を恐れ、祠や神殿に納め祭ったり、供え物をしたりする必要はないのです、と。
隅谷三喜男さんが、こういうことを言っています。近代科学が、なぜ文化の歴史の古いアジアやエジプトのようなところから生まれず、キリスト教世界の中から生まれたのか。いろいろな議論があるけれども、と断りながら、そのひとつの大きな要因は、キリスト教世界では造り主である神を信じていたからだ、と。すなわち、聖書の考え方からすると、この世界、目に見る物は神ではないから、自然を恐れることなく、冷静に、客観的に手に取って見ること(科学)が可能になったのだ、と言うのです。造り主である、まことの神を知ることは、人を「得体の知れない恐れ」から解放するのです。多くの神々を祭るアテネの人々もそうなのですが、根本にあるのは、もう一度言うと、恐れや、不安なのです。
聖書は、冒頭、天地を創造された神、人を創造した神を、語り始めます。神は天地を創造された。そして造られたものを見て、「極めてよい」と言われた(創世記1章31節)と。今日のところでは、「世界とその中の万物とを造られた神」「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださる」と言っています。
いったい人間は恐れや不安を感じて生きるものではありません。そうであってはならないのです。神は人間を創造されたとき、人間には恐れも、不安も、ありませんでした。人間は、神のお造りになった世界を見つめて生きることで、心は満たされて生きていたのです。たとえ私たちの方では造り主を知らないとしても、神には、私たちを造った意味がある。私たちのほうで動いて行ってしまっても、もとより、神は、造ったものに対して「極めてよい」と宣言してくださっているのです。
さらに聖書は言っていました。イザヤ書46章3、4節「聞け…母の胎を出たときから私に担われている者たちよ/胎(はら)を出た時から私に担われている者たちよ。あなたがたが年老いるまで、私は神。あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。」この約束のとおりに、神は、イエス・キリストによって、私たちを背負ってくださいました。罪、的外れな私たちを背負ってくださったのです。自分のイメージによって神を作っていた時は、恐れや不安がありました。しかし、向きを変える(それが悔い改める)ことで、「あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。」という神を知りました。私たちは、こうして恐れや不安から、解放されました。
この神を信じ、希望をもって歩むことを たとえれば、神が備えてくださったすばらしい曲を演奏する歩み、そのような日々、と言うことが出来ると思います。信じた者はその曲を人生において演奏します。
楽譜には冒頭、いろいろな記号が付いていて、その通りに演奏し、歌うことで、作曲者の意図した、すばらしい演奏になることを約束しています。では、私たちの歩み、神を信じる者の生涯という「楽譜」(信じて歩み始めたキリスト者の人生の「楽譜」)の冒頭にも、そういう記号がつけられ、そのすばらしさが保証されているのです。どういう記号かというと、「極めて良い」というハートマークです。神は人にこのハートマークを付け「すべての人に命と息と万物とを与え」あなたはすばらしいと言われました。私たちはその演奏を始めたのです。そればかりではなく、途中、至る所にこのマークをつけました。「あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう。」楽譜につけられたこの記号によって演奏をするなら、私たちの生涯という曲は、いつか必ず、作曲者の意図したすばらしい曲になるのです。
恐れと不安の演奏をするか、どちらがいいか、はっきりしています。神が、イエス・キリストによって備えてくださった、ハートマークの付いた、命を奏でる演奏を、これからも、続けようではありませんか。