カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • キリストのまなざしの中で

    2025年11月23日
    サムエル上16:1~13、マルコ10:17~34
    関 伸子_牧師

     ある新聞社が「宗教を信じますか?」というアンケートをとったところ、「信じる」と答えた人は、わずか30パーセントだったのに対して、「霊的なもの、神秘的な何かの存在を信じますか?」という質問に対しては、65%もの人が「信じる」と答えていました。このことから私たちは、人間は神という存在を否定しても心のどこかでなんらかの不安を抱きながら生きているのだということを知ることができます。それは二千年昔のユダヤでも同じでした。彼らにとって最大の関心事は「どうすれば永遠の命を得られるか」ということでした。

     主イエスが十字架への旅を始めようとしたそのとき、ある人が「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねました。この人が永遠の命を求める真剣さはその態度に現れています。しかし、この人は永遠の命をどのようなものだと思っていたのでしょうか。おそらく彼は、やがて来るであろう終末の時、生きる保証を欲しかったのでしょう。またこの人は、永遠の命を人間の善い行いによって獲得できると思っていたのです。

     主イエスを見るなり、「走り寄り、ひざまずいて尋ねた」とありますが、これは彼がまじめに求めていた証拠です。しかも真剣に道を求めている人ですから、「殺すな・・・・・・父母を敬え」という十戒の掟を子どもの時から守ってきました。20節では「先生、そういうことはみな、少年の頃から守ってきました」と述べます。守ってはきたけれど、永遠のいのちへつながる道なのか、不安になる。そこで、イエスのもとに走り寄り、「善い先生」と尋ねかけたのです。

     イエスはそれに答えて「なぜ私を『善い』というのか」と語ります。これは男の呼びかけを追従と受け取ったからではありません。男の問いに真に答えられたのはただ神ひとりでしょう。だから「善い」を自分から切り離し、神に帰して、男の注意を神に向けようとしたのです。その神の教えるいのちへの道は十戒にまとめられています。イエスはそれを男に思い起こさせます。
     イエスの答えを聞いた男はホッとしたに違いありません。そういういうことはみな、少年の頃から守ってき」たからです。しかし、ホッとすると同時に、不満も残ったに違いありません。イエスの答えなら前から知っていた答えにすぎないからです。

     「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」。「慈しんで」の原文ではアガパオー「愛する」が使われています。イエスは神の教える道をさらに具体的に教えます。その教えを直訳すると、「行って、持っている物を売って貧しい者に与えなさい。あなたは宝を天に持つだろう。そして来て、わたしに従いなさい」。財産を手にしたままイエスのもとに来ても、「私に従う」ことはできません。そこで「行って」財産を売り払い身軽になって「来なさい」。そうすれば従うことができるようになるのです。
    「彼はこの言葉に顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(22節)。イエスの招きは金持ちの男に葛藤を引き起こしたのです。彼が悲しんだのは、イエスの愛を感じているし、イエスに従うことが永遠の命への道であることに気づいているからです。その後も彼はイエスの言葉を思い出したにちがいありません。そのたびに悲しみながら、立ち去っていったはずです。

     「金持ち〈プルーシオス〉」、この語は「豊かな、富んだ」を意味する形容詞ですが、今日の用例のように、名詞化されて、名詞として使われることもあります。この用例は大きく二つに分けられます。一つは文字通りの意味で使われ、「現世の財産に富んだ、裕福な」を意味します。この場合、名詞化されていれば、「金持ち」と訳されます。しかし、「金持ち」の言意は他方「精神的な価値に豊かな」ことを表します。神は憐れみに豊かな方であり、キリストも豊かであったのに私たちの貧しくなられた方です。ですから、苦難や貧しさの中にあっても、このような神とキリストを信じる者こそがほんとうに豊かであり、神は世の貧しい人をあえて選び、信仰に富ませ、約束した国を受け継ぐ者としました。豊かさを図る基準をどこに置くかによって、豊かさの意味が異なってくるのです。

     今日のところに登場した金持ちの男はたくさんのものを持ちすぎていたが故に、自分でも気が付かないうちに自分の力で救いに至る道を模索する罪に陥っていたのです。何とか自分の力で手に入れようとするところに人間の罪があります。「神は信じたくない。だけど救いは得たい。」これが人間の偽らざる気持ちでしょう。最初に紹介したアンケートに人間が変わらずに持ち続けている罪の姿がそのまま表れているのです。

     主イエスは「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい」と弟子たちに言われました。何かを持っているということが、私たちを不自由にし、救いへの道をどんなに妨げているかをはっきり示しています。イエスにこう言われて弟子たちは「それでは、誰が救われることができるのだろうか」と茫然としてしまいます。それは私たちも同じです。

     信仰は従うことです。自ら貧しく生き、慰めを世から期待しなかったために、十字架へと歩むことになったキリストに従うことです。そこには神の言葉以外の保証は何もありません。主イエスは今、この物語を読んでいるわたしたちをじっと見つめ、人生は物を蓄積することによってではなく、わたしたち自身を解放することによって営まれるのだ、私に従いなさい、と静かに語りかけておられます。主イエスの愛のまなざしがわたしたちを捕らえて離さない。そこに生まれる明るい自由に生きる喜びを神からの恵みと思い、日々、主に従う道を選び取って行きたいと思います。祈ります。