復活の主にお会いして
2024年3月31日
イザヤ書55:1~11、ヨハネによる福音120:1~18
関 伸子牧師
ヨハネによる福音書の復活物語にはイエスの近しい人々が次々に交差します。そしてここでは、複数の女たちの中でも特にマグダラのマリアに焦点が合わせられています。週の初めの日の明け方、一人で墓に向かったマグダラのマリアは、墓から石が取りのけてあるのを見て、ペトロともう一人の弟子に「誰かが主を取り去りました。どこに置いたのか、分かりません」と告げます。「誰かが主を取り去りました」は直訳すると「人々が主を墓から取り去った」と告げているのです。
それを聞いた二人の弟子たちも墓に向かって走ります。ペトロたちが墓へ行きますが、速く走る弟子が先につきます。ヨハネはイエスの身体を包んでいた亜麻布をのぞき込んだだけでしたが、先に着いたペトロは中をのぞきこんで、亜麻布が置いてあるのを見ます。布切れと亜麻布は別々に巻かれていた。そして、布切れが丸められていたことは、イエスの頭に巻かれていた時の状態、つまり、奇跡が起こったのです!
「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も中に入って来て、見て、信じた」(8節)。最初に墓に来たもう一人の弟子ヨハネも、墓の中に入って、イエスを覆っていた布切れと亜麻布だけが残されていること見て、信仰を持った。
主イエスが愛された弟子は、決して奇跡や不思議な現象を見て信じたのではないことをヨハネは伝えます。それゆえ、同じ「見る」という言葉が、1節のマリアが石を取り除けるのを「見た」ではプレポーというギリシア語、そして6節のペトロが墓に入って亜麻布と頭の覆いを「見た」ではセオーレオーという言葉が、そして8節の、もう一人の弟子が「見た」ではエイドンという言葉が使われています。プレポーもセオーレオーも「時間をかけてじっくり見る」という意味になります。これに対して、エイドンは、復活したイエスを見る、「洞察する」といった意味合いを含んでいます。このことは、イエスの復活を信仰するには、イエスの体が現に今ここにないことを見る、または知るだけで十分であるということを示しています。
しかしその後に、「イエスが死者の中から必ず復活することを記した聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(9節)と続きます。「信じた」というのに「理解していなかったのである」というのはわかりにくい日本語です。この時の「信じた」というのは、「わからないけれども信じよう」という信仰の決意表明ではないかと思います。
ところで、この物語と重なるようにマリアが墓の外で泣いています。愛する者を失って泣いていた。そこに白い衣を着た二人の天使が登場して、「女よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「誰かが私の主を取り去りました。どこに置いたのか分かりません」(13節)。こう言って後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。「振り向く」と訳されている語は、まず空間的に向きを変える、振り向くこと。さらに心の向きを変えることでもあります。これまで確かだと見ていた方向からまったく見ていなかった反対方向へと心の向きを変えることです。そこにイエスは立っておられるのです。
イエスは言われました。「女よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか。」マリアは、園の番人だと思い、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか、どうぞ、おっしゃってください。私があの方を引き取ります」と言うと、イエスは「マリア」と言われた。マリアはこの呼びかけに対して、「ラボニ」と答えました。これは「私の先生」という意味です。「ラビ」という言葉を、マリアが日常生活で用いているアラム語で言ったのです。「マリア」「ラボニ」。これまで何度も呼び交わされた言葉であったでしょう。
マリアは、なつかしさとうれしさのあまりイエスに触れようとしたのでしょう。だから「私に触れてはいけない」(17節a)。「まだ父のもとへ上っていないのだから」(17節c)とあります。この言葉は何を意味しているのでしょう。
主イエスは、この後弟子たちの前に現れ、その時いなかったトマスのために再び姿を現されます。マリアに対しては「私に触れてはいけない」と言われたのに、トマスに対しては、それとは正反対に「信じられないなら、自分で触って確認しなさい」と言われたのです。ここでも、主イエスは一人ひとり違ったかたちで人格的なふれあいをなさることがわかります。
復活とは、過去と断絶して、新しい方向に向かうことです。この後、Sさんの洗礼式が行われます。Sさんは2月14日、灰の水曜日、夜の祈祷会に久しぶり来て、「今までの歩みを振り返り、これからはキリスト者として、信仰を持って生きたい」と語りました。過去を振り返り、神に向かって大きく未来へと方向転換され、古いものが新しくされる。それが復活です。主イエスのご復活を喜び祝う礼拝での受洗に向けて急ピッチで洗礼勉強会を行いました。「私の望むことをなし 私が託したことを成し遂げる」(イザヤ55:11b)。Sさんへの神様のご計画と愛を想わされます。
主イエスは死んで復活し、墓のそばで涙に暮れていたマグダラのマリアに、そして、家に閉じこもっていた弟子たちに現れます。「私は主を見た」、「私は主を見出した」、「私は主に見いだされた」とマリアは語るようになりました。この物語はヨハネ福音書の時代の人々にとって、復活のイエスは今も生きて、一人ひとりに出会うお方であることを語っています。イエスさまは空の墓の出来事を伝え聞いた私たちのそばに来て、ともに食卓を囲み、復活の出来事の意味を悟らせてくれます。そこで教会は甦りの事実に生きて、いのちに生きて、愛に生きて、その歴史を始めることができたし、今も、ここにおいて、その歴史を続けているのです。祈ります。