立派に生きるとは
2024年9月8日
エレミヤ50:4~7、ペトロの手紙一2:11~17
関 伸子牧師
今年のわたしたちの教会の標語聖句、「(主イエスの言葉)私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:18)とあるように、教会は和解を世に伝える務めのために、世から召し出され、世に遣わされます。教会とキリスト者は世の只中にある。しかしそのかぎり、世に憎まれ、世の誘惑にさらされることも避けられません。だからキリスト者は「世に倣う」ことがあってはならないのです。そのような地上におけるこの世における教会とキリスト者は「天の故郷」を目指して地上を旅する群れ、それがこの世における教会とキリスト者の姿です。
ペトロの手紙一第2章11節は「愛する人たち、あなたがたに勧めます。あなたがたはこの世では寄留者であり、滞在者なのですから、魂に闘いを挑む肉の欲を避けなさい」という言葉をもって、ペトロは、改めてこの手紙の受信者たちに呼びかけ、神の御旨が成就されるために信仰の戦いを続けるべきだと語り、その遂行のために備えるように勧めています。「この世では寄留者であり、滞在者なのですから」の直訳は「旅人また仮住まいの者として」です。これは「肉の欲を避けなさい」にかかります。寄留者というのは、神の国を目指して地上の旅人という意味ですが、その寄留者が「肉の欲を避け」なければならないのは、肉は「魂に戦いを挑む」ものであるからです。「魂」とは救われるべき被造的人間そのものです。
後半の13節から17節には教会と国家、あるいは対国家と関係にあるキリスト者の在り方についての勧めの言葉が記されています。ペトロの手紙は、「統治者としての王であろうと、・・・王が派遣した総督であろうと、服従しなさい」(14節)と言って、何をわたしたちに求めているのでしょうか。まずここで確認しなければならないことは、ここで決してペトロの手紙はいわゆる国家論とか政治権力論とかいうようなことを議論しているのではないということです。この手紙を読み進めれば、みなさんもお分かりになるでしょう。
ここでは、「愛する人たち、あなたがたに勧めます」と11節の言葉があり、そこからこの部分が始まっています。この「勧める」というのは、わたしたちにどんな生き方をしたらいいか勧告するということです。どんな生き方をしたらよいか。そのことをまず11節、12節において、いわば基本的なことを述べて、13節からは、まず「僕たる者よ」と以前の聖書が訳していたように、主人に仕える僕が、その主人に対してどのような態度を取ったらよいのかということが語られます。
「すべて人間の立てた制度に、主のゆえに服従しなさい。それが、統治者としての王であろうと、あるいは、悪を行う者を罰し、善を行う者を食めるために、王が派遣した総督であろうと、服従しなさい」(13,14節)。
このペトロの勧告は、前後関係や文脈から切り離して受け取ってはなりません。ここで、ただ漠然と国家とか家庭とかが語られるのではなくて、ここに登場する権威者たちはすべてが立派な権威者ではなかったということです。特に強調されるのは、僕が仕えるべきなのは、「気むずかしい主人」です。皆それぞれ権威を持っていて、しかもその権威をもって威張る人たちです。そういう人びとに対して、いったいどうしたらいいかということを教えるのです。この当時はローマ帝国の時代です。たとえばアウグストゥスなどに知られるように、自分を神とし、礼拝し敬うことを要求する皇帝を生んだ、そういう帝国だったのです。ですから、そういう人たちにとって、主イエス・キリストに救われることのひとつのたいへん具体的なことは、権力者に首根っこを抑えつけられていじめられている自分が救われるということでした。救われるということは抽象的なことではなく具体的なことだったのです。
「善を行って、愚かな人々の無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(15節)と言って、国家とのかかわり、また真の戦いを指し示すペトロ。しかもペトロはこの尊い自由を「悪を行う口実とせず」と、受信者たちの弱点をよく心得たうえで行き届いた注意を与えています。
ペトロの手紙一は、なぜ王や長官に従わなければいけないのかと言えば、13節に「主のゆえに」と書きました。他の何の理由もありません。主イエス・キリストはどのようにして、この世の支配者となられたか。権力を振るっただろうか。悪口を言う者に悪口をもって報いただろうか。祝福をもって報いただけです。主イエスはユダヤの権力に従われた。ローマの権力に従われた。そして死なれた。殺されたのです。ローマの権力だけではありません。わたしたち自身が、実は、神に対して、主イエスに対して、ローマの皇帝と同じように上、から目線で立ちはだかっていたのではないか。それがペトロの体験です。それがペトロの罪の体験です。わたしたちもまた愚かだったのではないか。その自分を神が訪ねて来てくださった。神のそのようなもてなし方は、私たちが敬っていない人にも差別なしに与えられるものだと言うのです。
「神を畏れ、王を敬いなさい」ということは、王を恐れることではありません。この世の権力を恐れることではありません。すべての者が、皆、神の愛の中にあるという認識です。その事実を認めるということです。神はこの人を愛しておられる。敵をも愛すると言ってくださったのです。その主イエスの愛が、わたしを愛してくださり、また、同じようにこの人々を愛していると認める。そして、そのキリストがその人に既になさっている、そのなさり方をわたしたちも真似てみる時、愛の服従が生まれるのです。そして、私たち自身がわずかでもこの肉の思いに勝ち、祝福に生きるさいわいを味わいたいと願います。お祈りをいたします。