いのちの真理
2024年9月1日
エレミヤ書28:1~17、ヨハネの手紙一5:6~12
関 伸子牧師
イエス・キリストは人びとを、とりわけ、悩み苦しむ者を愛し、最も小さい者たちを御自分の周りに置かれました。しかし、その結果は、十字架につけられるという敗北であったようにも見えます。けれども、十字架は終わりではありません。復活が続きます。復活は、この人類を愛しぬかれた神の子が、最後に勝利することを意味しています。ここで「世に勝つ」と言っているのは、「世俗」の意味です。この世俗は、案外、キリスト者の中にも入り込んでいるのではないでしょうか。信仰はまず、この自分の中にある世俗と闘い、それを克服しなくてはなりません。
そのために6節以降に記されていることが大切になってきます。6節以下において、12節まで、これまでにあまり用いられていなかった言葉がここでは頻繁に用いられています。「証し」、これはもともと裁判用語で、証人が語る証言を意味する言葉です。ここでも、「証し」と言われているのは明確な真実の根拠を示すことです。しかし、「証し」はここでは犯罪が問題になっているのではなくて、事柄は信仰にかかわる、私たちの信仰が真実なものであるか、確かなものであるか、その確かさの根拠がどこにあるのかということが問われています。これは私たちがいつも問い続けていることです。
私たちの信仰の営みのなかで、「証し」というときには、自分の今ある信仰がどのような神のみ言葉と御業に支えられているかを語ります。ですから、その証しにおいて語られるのは、「自分はこういう神の恵みを経験した」、あるいは、「このように聖書の言葉をこれまでにない力ある言葉として聞き取った」ということです。先日、東京四教会合同祈祷会で聞いた内田弥生中会神学生の証しにおいても、神の恵みと御言葉の力強い働きがこの証人を通して働いていることを聴きました。
ヨハネの手紙で語られているのは、この手紙を書いたヨハネの証しではありません。私たちはここに記されているように、「水と血とを通って来たお方」の助けを借りなくては、世に勝利することはできません。「水と血」とは、「世」に勝ってくださった神の子イエス・キリストの勝利をあらわす客観的証拠です。次に来る霊は、その内的保証です。ヨハネの文書を見ると、「水」が特別な意味をもって出てきます。たとえばヨハネによる福音書の物語に多くみられます。そこに記されている水は、ほとんど洗礼の水か、それに関連するもので、その背後にイエス・キリストの十字架の血があります。
「私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはなおのことです。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです」(9節)。つまり、神がその神の子についての証しをしたものであり、その意味でもっとも重大な証しなのです。
10節は、この神のあかしを信じる者と信じない者がいることを述べます。御子についてあかししてくださっている神のそのあかしを信じるか信じないかは、その人に大変な違いをもたらします。11節はその証しの内容を、信じる者が受ける大きな恵みという面から述べています。それは「永遠の命」です。神は御子の水と血によって、私たちが永遠のいのちを得る道を開いてくださいました。
「御子を持つ人は命を持っており、神の子を持たない人は命を持っていません」(12節)。「御子を持つ」という言葉にどこか抵抗があると思います。「持つ」ものは所有物です。これはわたしのものだと、み子イエスを抱え込んでしまうような思いにさえなりかねません。しかし、いろいろな外国語の翻訳を読んでも、多くのものが「持つ」とはっきり原文の通り訳しています。素朴に言えば「み子を持つ人はこの命を持つ」。言い換えると、私たちが「これはわたしのみ子」、「わたしの主」とお呼びできるほどに深い私たちとの結びつきのなかに、み子が喜んで生きてくださっているということです。そしてそのみ子のうちにいのちがある。このいのちは永遠のいのち、死に勝ついのち、墓の前でもわたしたちは生きると明言できるいのち、そのいのちがみ子と共に私たちに与えられている。あの水と血を通って来られた方において。
改めて6節に戻って、これは私たちがもしかすると読み過ごすことですけれども、「水と血を通って来られた方」と言ったあとで「イエス・キリスト」と明確に記しています。これは第5章の1節のイエスをメシア、キリストと信じる信仰が明言されていた思いが繰り返されていると聴くことができます。同じ信仰の言葉で出てきているところです。あるいは5節の、「イエスが神の子である」という言葉を繰り返しているということもできます。なぜこんなことを丁寧にしたのか、水と血を通って来られた方、あそこで罪人のひとりとして洗礼をお受けになってくださった方、あの方、そしてついに十字架にまで至られたあの方、あの方こそイエス、そしてキリスト、私たちの救い主、私たちのいのちの真理、そのように、積み重ねるようにして、主イエス・キリストにおいて鮮やかに見えてきた神のお取り計らいの事実に大きく目を開いているのです。
いのちの真理によって「永遠の命」が与えられていることを、わたしたちは日常生活のどこで確認しているでしょうか。ある人が興味深いことを言いました。「教会はレストラン」と。レストランの語源はレストラーレ(ラテン語)「回復する」という意味です。教会というレストランが出すのは主日礼拝です。そこに招くのは神であり、そこで、命のパンであるイエス・キリストを受け入れることによって、癒されて元気になる。その力は、いのちの真理であるイエス・キリスト、命のパンであるイエス・キリストからいただくのです。