カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • イエス様の祈り

    2024年8月25日
    詩編62:2~3、ヨハネによる福音書17:12~19
    金谷 美帆_長老

     今日は、第17章の中の12節から19節を着目していきたいと思います。12節「私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。私が保護したので、滅びの子のほかは、誰も滅びませんでした。聖書が実現するためです。」と書いてあります。滅びの子とは、弟子の一人であるイスカリオテのユダのことです。ユダが裏切って滅びに至ったという事実ですが、この出来事は、このあとの18章で書かれていきますが、イエス様は、それが神さまの意志によるものであることを主張しています。続いて13節の前半の部分を読みますと「しかし今、私は御もとに参ります。」とあります。これはイエス様はもうすぐ十字架にかかり、この世を去ること、そして天に上げられることです。このことは、神さまのご計画、そして、神さまの時のことです。

     13節の後半は「世にいる間に、これらのことを語るのは、私の喜びが彼らの内に満ち溢れるようになるためです。」とありますが、この言葉の表現が少し難しいと思うのは私だけでしょうか?これから、囚われの身となり、十字架につけられることが分かっているのに、どういうことでしょう。少し前に戻り、第16章22節「このように、あなたがたにも、今は苦しみがある。しかし、私は再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」とあります。弟子たちの共同体の上には、喜びが満ち溢れるようになるということです。そして、今、生きている私たちにも、同じようにこの喜びが満ち溢れるようになる。十字架の死では終わらない、この先に復活されるという希望があります。
     
     しかし、弟子たちは世から憎まれる苦しみもありました。14節「私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではないからです。」とありますが、世から憎まれてしまうのはなぜでしょうか。神さまによって世から選び出された、この世から召し出された弟子たちですが、弟子たちのいた場所はというと、ほかの人々と同じ場所でした。何か特別な力があったとか、地位があったとか、そのようなことではありません。漁師や徴税人です。そこから弟子として選び出されたのです。イエス様が世から憎まれて、そして十字架にかけられ死んでいかれたということは、イエス・キリストに従っていく弟子たちも、イエス様と同じように憎まれていく、ということになります。憎まれると一言で簡単には言えない、到底計り知れない、憎悪と迫害です。しかし、この絶望で終わりではありません。世から出た者ではないように、弟子たちもまた世から出た者ではない、というイエス様が言われたこの言葉は注目するべきことだと思います。新共同訳聖書では、「世に属していない」と訳されていました。聖書協会共同訳の「世から出た者ではない」の方が原語に近いようですが、内容的には「世に属していない」のほうが分かりやすいかもしれないということが書いてある解説書もありました。「この世にあって、この世のものではない」それは、この世にある者、この世に身をおいている者ですが、この世に属する者ではない、ということです。これは弟子たちだけではなく、2000年の時を超えた、今の私たちも「この世にあって、この世のものではない」のです。

     最近の出来事ですが、カトリックの短大に通っていた時の友人に久しぶりに会った時、友人の一人が、夜眠る前に、短大の時に覚えた主の祈りを祈り、ロザリオを大事にお財布につけていると話してくれました。友人は幼稚園の教諭を長く勤めていましたが、職場で精神的に参ってしまうことがあり、退職してからは働き先も数年ごとに代わっていました。でも、友人が言うには、主の祈りを祈ると心が整うのだそうです。私が信仰を証しなかったら、この友人も話すことはなかったかもしれません。このことを知り私は友人が洗礼へと導かれて欲しいと祈るようになりました。15節「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」とイエス様は願われています。このイエス様の願いと祈りに私は救われます。証をしていく時に、イエス様が祈っていて下さる!と勇気づけられます。日々の生活を過ごす時も、イエス様の祈りによって、守られています。

     18節「私を世にお遣わしになったように、私も彼らを世に遣わしました。」とありますが、弟子たちと同じように、この時代に生きている私たちもイエス様によって、世に遣わされています。この世から召し出されているのです。19節「彼らのために私は自らを聖なる者とします。彼らも、真理によって聖なる者とされるためです。」つまり十字架にかかって死なれること、十字架の贖いによって、私たちの罪は赦され、救われるのです。それと同時にイエス様に続く者として、私たちは自分をささげて生きる、全面的に神さまに属し、身も心も神さまのものになりきることです。

     私たちは、救われて終わりではないのです。救われたその先にあるもの、それは、イエス様の愛によって世に遣わされているということです。まだ神さまを知らない人たちに、神さまの愛、そして御言葉を伝えていく、という使命があります。礼拝の最後に、派遣の言葉と祝福をもって送り出されていますが、私たちは、宣教のつとめを果たすようにと世に送り出されています。そして、私たちの奉仕ひとつひとつも、ささげている時間も、最もよいものをささげたいと思います。私たちの持ち合わせている賜物を、無理なく、嫌々でもなく、できる範囲で喜びを持ってささげていくこと。そして、忍耐強く希望を持って宣教していくことができますようにと、皆さんと心をひとつに合わせてこれからも祈っていきたいと思います。