神の贈りもの
2025年7月20日
歴代誌下46:12~21、マタイによる福音書17:15~23
関 伸子_牧師
主イエスは、山上の説教の終わりに近づくところで「狭い門から入りなさい」(13節)に始まる、狭い門、細い道を見いだし、そこからはいれ、という教えに続いて、「偽預言者に注意しなさい」というみ言葉を語り始められます。なぜ、主イエスは、ここで、このようなことを語り始められたのでしょうか。
「注意しなさい」と主は言われます。偽預言者に対して、警戒するのです。警戒すると訳されているこの言葉は、目をさましていること、心を集中させ、目をこらして、じっと、あるものを見つめるということです。それほどに注意深く計画するのです。日本語で言えば、「目を皿のようにして」、ということであるかもしれません。どんなものでも、警戒すべきものが現れたら、見逃すわけにはいきません。
15節では「羊」と「狼」が対比されています。羊は、柔和、従順の代表とされ、それ故に、苦難の僕の姿として描かれました(イザヤ53:7)。さらに、イエスは、弟子たちをイスラエルの町に派遣することを、狼の中に羊を送り込むことにたとえますが、イエスと彼の弟子たちは、内側も羊のように柔和であり、受けることよりも与えることに専念する奉仕者です。そして、イエス御自身は自分自身の命を十字架上で人々に与えたのです。
16節と20節の「その実」について、二種類の譬えが記されています。茨からぶどう、あざみからいちじくと、良い木対悪い木についてです。旧約のイスラエルは「良いぶどう」でしたが、酸っぱいぶどうとなりました(イザヤ5:2)。
17節をある人が次のように訳していました。「良い木は良質の実を結び、悪い木は危険な実を結びます」。木から枝や根が切り取られているのなら、それは悪い木です。しかし、人々は、早急な判断をすることは赦されていません。イエスは良い種をまいたはずの畑に毒麦の種もまかれた時には、良い麦まで抜くことのないように、刈り入れまで両方をそのままにしておき、毒麦が十分に成長してから、取り入れ、訳ことを勧めておられるからです(マタイ13:24~30)。
偽預言者たちには、実行力はあったのです。ちゃんと実践しているのです。だからこそ、私たちにとって、その誘惑は大きくなるのです。いつでも、何か実践していればよい、というのではないのです。しかも偽預言者は、主の名によって言葉を語り、主の名によって、力あるわざを行っているのですから、いよいよ誘惑は大きいのです。
しかし、偽預言者は、「不法を働く者ども」なのです。問題は働くか働かないかではありません。働いているその働きが、不法か合法かということです。主イエスは、
「私に向かって、『主よ、主よ』と言う物が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」(21節)と言われました。不法をはかるものさしは、「私の天の父の御心を行う者」です。私たちに問われているのは、神の御旨によって生きているかどうかということです。この問いに、私たちはいつでも呼び戻されるのです。
最後はこういう言葉です。「その日には、大勢の者が私に、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をたくさん行ったではありませんか』と言うであろう。その時、私は彼らにこう宣告しよう。『あなたがたのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ』」(22、23節)。これは「自分たちは果たすべき行いをきちんとしました」という主張です。
主イエスは、「不法を働く者ども」と厳しく語ります。しかし、最終的にはイエスの方こそ、人々から「不法を働く者ども、私から離れ去れ」と言い、不法を働く者たちはこの世から追い払われたのでした。こうして、私たちの不法を担われたのです。使徒パウロが、「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである」(ローマ4:7~8)と言う通りです。私たちが、「主よ、主よ」と言うよりも前に、神が、あのサムエルを呼んだように、私たち一人ひとりの名を呼んでいるのです。
大事なことは、信仰によって私たちが立派な人間になるということではなく、私たちが神の心を自分の心とし、自分を通して御心が地上に実現していくことです。イエス・キリストは「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)と言われました。神は私たちの存在そのものをすでに祝福してくださっているのです。私たちは、主イエスによって、存在そのものを救われているのです。よい人間にされているのです。私たちが、みのらせる実のよしあしによって、私たち自身である木をよくしたり悪くしたりするのではありません。私たちは、すでに祝福のうちにあります。神の子として生き始めています。私たちには、神がおられるのです。
私たちは、イエス・キリストというぶどうの木にしっかりとつながり、私たちが、神に知られている者であることを、何よりの喜びとして受け取れるときに私たちは本当にさいわいな歩みをすることができるのです。神の恵みの中にいる自分について、つぶやいたり、不満を抱く必要はありません。そんなことをしたら、偽預言者になるのです。自分を生かす、神のよい恵みから出発すればよいのです。主の愛の業が自分を通しても広がることを願い、偏狭な心が取り去られ、他の信仰をもつ人々とも謙虚に接していけることができるようになることを願います。お祈りをいたします。