カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神のあわれみの前に立つ

    2025年8月10日
    ホセア書46:1~6、マタイによる福音書9:9~13
    関 伸子_牧師

     「イエスは、そこから進んで行き、マタイと言う人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた」(9節)。主イエスは、体の麻痺した人をいやした後、今度は、収税所にいる徴税人のマタイを見つけました。

     マタイは名前からしてイスラエルの民の一員です。「収税所に座っているのを見て」、これは記憶すべき表現です。このマタイが働いているその場所で、主に見られているのです。もう、あそこに座るのがいやになった。あそこに座っていたら、悪いことばかり考えるから、そこから出ていかなければならない。いつもそう思っている。しかし、それができない。せめて仕事を終えて、仕事場を離れて、夜床に就くと「ああ、今日も一日、私は悪いことをしてきた」と嘆く。その嘆きの場所にいるマタイをご覧になったのではなく、いわば、罪を犯している、そのど真ん中において生きているマタイを、イエスが御覧になったのです。

     イエスはマタイを見ると「私に従いなさい」と言われました。おそらく、これがイエスとの初対面ではなく、以前からイエスの教えを聞いて、ひそかに信じていたのでしょう。その時、彼は立ち上がりました。わざわざ「立つ」という言葉を使っていることの中に大きな意味があります。この恵みの招きは、立ちあがる服従を生みます。まず自分がしっかりと立ち上がらなければ、新しい世界に踏み出すことはできないのです。

     イエスは彼らと、また「そこに、徴税人や罪人が大勢来て、イエスや弟子たちと同席していた」(10節)とあるように、隠れることなく公然と食事をします。イエスは、罪人や憎まれ者たちに対して全面的に開放的であったのです。ここで、イエスのこの行為は、ファリサイ派の人たちが弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(11節)と非難される言葉になっています。食卓を分かち合うことは、仲間として受け入れることのしるしでした。罪人と見なされている人々を公然と受け入れることで、イエスの信用は全く失われてしまいました。

     「イエスはこれを聞いて言われた『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である』」(12節)。この引用は、当時の一般のことわざに基づいています。確かに、体の強健な人は医者を必要とせず、病気の人が医者を必要とします。しかし、体の強健な人も霊的に弱さを持つなら、霊的な権威者を必要とします。

     続けてイエスはホセアが神について言及するテキストを引用しながら、弟子の代わりに彼らにこのように答えます。「私が喜ぶのは、愛であっていけにえではない」

     (ホセア6:6)(マタイ9:13参照)。ホセアは紀元前8世紀の後半に、北イスラエルで活動した預言者です。第5章8節から15節が紀元前733年の「シリア・エフライム戦争」の後の混乱を描いているなら、第6章1節から3節はこの混乱の中での民の「悔い改め」を述べていることになります。しかし、それに答えた神の言葉はせっかくの悔い改めを拒絶しています。神は拒絶の言葉を閉じるとき、「私が喜ぶのは慈しみであって いけにえではない。神を知ることであって 焼き尽くすいけにえではない」と諭しています。民がささげる「いけにえ」は「愛」と「神を知る」ことに基づいていなかったのです。彼らはいけにえを献げて礼拝しますが、それは神の思いではなく、人の願望に基づく行動でしかありません。神に仕えるつもりで、自分の思いや願望に仕えているのです。

     神がアッシリア軍の侵入を許したのは、民のゆがみに気づかせ、真の悔い改めへと導くためでした。しかし、神からのサインを見落とし、人の思いを神の思いとする過ちから抜け出せずにる彼らには、「曙の光のように必ず現れ」る(3節c)神の裁きを下さざるを得ません。それは罰なのではなく、あくまでもゆがみに気づかせるための手段であり、真の愛に触れさせるための道なのです。

     同じ食卓に着くことは日本でも特別な意味を持っていますが、イスラエルではいっそう深い意味を持ちます。食卓を共にする者一人ひとりが、主人の祈りの中で裂かれたパンを食べるとき、神の共同体がそこに成立することになります。

     ここに新しい時代がきたことが明らかに示されています。イエスは、人間は神の前にすべて平等であり、他人を汚れた存在として差別するのは誤りであることを示されました。そして、それらの差別されている人々との交わり、共に食事をすることにより、神がそれらの人々を愛しておられることを具体的に示されました。これは律法学者やファリサイ派の人たちの目から見るなら、律法に対する違反でした。しかし、イエスはそのような律法の理解こそ誤りであり、神のみこころは、人々を差別することではなく、罪から救うことであると明言されました。イエスは今から二千年も前にすでにそのことを叫ばれていたのです。これは罪人たちを愛する、神の愛から出たことでした。

     8月6日広島において、9日長崎において原爆が落とされた日でした。原爆のエネルギーをも吹き飛ばす神の愛のエネルギーが主イエスの言葉にあります。主イエスは、そこから出ていって、「憐れみ」を学べ、と言われます。そこには、「私たち自身が憐れみ深い人間であるように」ということと、「主イエスの生き方の中にこそ、本当の憐れみがあり、私たちもそれを受けているのだということを悟りなさい」ということでしょう。主イエスは、傲慢な人間の罪のためにも死なれました。そのことに本当に気づくときに、私たちもまた、罪人として招かれてたことがわかり、神の深い愛を知るのです。祈ります。