カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 2025年10月19日
    「目を覚ましていなさい」イザヤ書27:12~13、ヨハネの黙示録7:9~17
    関 伸子_牧師

     ヨハネの黙示録は新約聖書の中唯一の黙示文学書です。黙示文学は、現在の悪の世とその終わりの近づきつつある模様、来るべき輝かしい情景、神の勝利、メシアの来臨、信徒の救いなどを、意象や幻、獣や数字などによる遇喩によって描いています。ヨハネの黙示録もこのような方法によってイエスの再臨を描いたものです。

     この書が書かれた当時の人びとは、当然のことだと思いますが、私たちが知っているような地球というものを知りませんでした。「地の四隅に四人の天使が立っているのを見た」(7:1)。丸い玉の上に生きているということは思いもつかなかったかもしれません。大地は平らであった。しかも円形ではなく正方形であったようです。その四隅に天使が立っている。2節によると「大地と海とを損なうことを許されている四人の天使」とあります。自然の災いの風がもたらすものも、黙示録の記者はいずれも神の御支配の下にあると、ここでわきまえています。

     そして、登場するもう一人の天使が、神の僕たちに「刻印」を押すまで災害を止め置くように、四人の天使に命じています。「刻印」については諸説あるようですが、主の日・終わりの日における終末的な救いというよりは、神の怒りから保護されるという点に強調が置かれています。刻印を押されるのは、「十四万四千人」(4節)でした。ここで語られている十四万四千人の人とは、偶像礼拝に関与しない、すなわち皇帝礼拝をあくまでも否定する、あるいは反キリストとの結びつきのない人々を指していると考えられています。彼らはそのような者として保護され、主の日になお生き延びているキリスト者であると考えられます。

     12は完全数です。特に神がお選びになったユダヤの民が12の部族を持っていたという意味で、神の救いの歴史において重要な意味を持つ完全数です。神は完全に救うべきものを救ってくださるのであって、そこで取りこぼしはなさらないということです。

     黙示録において「救い」は何を意味するのでしょうか。それは共同体に属する民の幸福や全的安寧、福祉と言うことができます。すべてが満たされシャロームの状態にあること、それが黙示録の「救い」です。当時の政治的イデオロギーに従うなら、全的安寧、平和、救いの公の源は、他ならぬローマ皇帝でした。まさに「パックス・ロマーナ」です。黙示録は、この救いの源泉が神と小羊であることを端的に示しています。その人たちは、「大きな苦難をくぐり抜け、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)という者たちです。先の四万四千人のことでしょう。そして、天の大群衆の叫びを聞いて、天使たちが神を礼拝し賛美をささげています。

     また第5章12節にあるように、ここでも天使たちの賛美の大合唱、礼拝がなされています。
    ここには「感謝」があります。感謝の生活こそ神より出て私たち人間に向けられ、いっさいの事態を好転するものであることを教えるのです。マザー・テレサはインドにおける貧しい人々、家のない人々、身よりのない人々の友となって、一身をその人たちの側に寄せて生活しました。彼女は主イエス・キリストの名のもとに、このような生き方をすることにより、感謝を経験しているのです。インドの現実はあまりにも厳しく複雑です。しかし、それでもマザー・テレサは、現実に一人の身寄りのない人が路上で寂しく死んでいく時に、目を留めないわけにはいかないと言いました。神の御手の中にあって、生命を大切にするということが考えられる生活へと進んで行く時、キリスト者の感謝の生活はさらに深みに入っていくでしょう。

     キリスト者は、神からいただいた恵みを心の中にしまっておいたりしません。聖書は、誰かに「恵みを持つ」という意味のことばを「感謝する」と訳している箇所がかなりあります。この意味は、心の中に生じた感謝の気持ちを相手に行動で表すことを示しています。「アーメン」で始まり「アーメン」で終わっている賛美の形がここにあります。逆境や苦境のただ中にあっても「アーメン」と告白しながらそれを乗り切るのです。

     この後、長老の一人がヨハネに問いこう問いかけました。「この白い衣を身にまとった者たちは誰か。またどこから来たのか」(13節b,c)。白い衣を着た人々が、殉教者、信仰の勝利者であって、あらゆる国民から来たことは既に言われてきました。ヨハネは、「あなたの方がご存知です」と答えます。これは「あなたたちはご存知です」の意味です。「大きな苦難」は、黙示文学において終末時に襲う圧迫を現わす言葉です。この圧迫した時に彼らは守られたのです。小羊キリストの十字架の贖いの血で救われたのです。次に、「彼らは神の玉座にいて 昼も夜も神殿で神に仕える」(15節)。「仕える」は、一般的礼拝を意味する語であり、祭司が神殿を司ることを意味します。今や祭司のみでなく、聖徒たちは昼も夜も絶え間なく神殿に出入りし、人間本来のあるべき姿に帰せられるのです。

     最後は、天上の中央に立つ「小羊」が彼らの牧者となり彼らを導きます。その時には死に勝利しているのだから「涙をことごとくぬぐわれる」慰めに満ちた栄光の輝きの中に、大きな苦難を通って来た者たちは包まれるのです。
    私たちもまた、この静けさの中に立つことができることを、どのような祝福にもまさる神の祝福と信じ、受け取ることができます。日々の歩みに、この黙示録の言葉が真実の慰めの言葉として、常に皆さまと共にありますように。お祈りをいたします。