神の言葉に立つ
2025年11月9日
創世記15章1~6節、ヤコブの手紙2:14~26
関 伸子_牧師
ヤコブの手紙が書かれた頃、当時の教会の中に、自分は信仰を持っていると言いながら、身近な隣人を助けようとしない人たちがいたのでしょう。著者は、ことさら「ある人が」と仮定の問題として提起していますが、実際には、教会内に存在している事実を示しているのでしょう。それは、自分には信仰があると言っている人間の存在です。教会は信仰者の集まりですから、教会員はすべて「自分には信仰がある」と思っており、そう言うのは当然です。しかし、その信仰者の集まりにおいて、「貧しい者への分け隔て」が現実に存在しているのです。
そんなばかなことが教会にあってはならない、とわたしたちは非難しますが、これは決して二千年前の「散らされたユダヤ人」たちの教会ばかりでなく、今日のわたしたちの教会の問題でもあります。「福音」とは抽象的な概念ではなく、イエス・キリストのみ言葉であり、そのイエス・キリストは愛そのものであり、イエス・キリスト御言葉とは、「愛の戒め」(ヨハネ13:34-36)にほかならず、愛の実践なしに、イエス・キリストの弟子ではありえません。したがって、愛の実践なしの信仰者は偽善者だ、とヤコブは真実を解き明かしているのです。
ヤコブにとって「行い」とは憐れみであり、みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、貧しい人を分け隔てしないことです。私たちが救われたのは神が私たちを憐れんでくださったからであり、私たちが憐れみを行いによってあらわすのは、その神の憐れみを忘れないためです。他者の痛みを自らの痛みとして負うことが、イエス・キリストの十字架によって救われた者のつとめです。
18節の「自分は信仰を持っていると言っていても行いを持っていなければ」という14節の言葉をふまえて構成されています。すなわち、14節の「ある人」がここで再び登場して、ヤコブ書の著者に尋ねます。「(わたしのように)あなたは信仰を持っているのですか?」と。もしそう尋ねられたなら、自分はこう言うだろう、「私は行いを持っている」。これがこの節の論理です。「あなたがたには信仰があり、私には行いがある」(18節)がヤコブの論敵の発言であれば、それをヤコブは自分の視点から言い換えたと考えられます。
信仰を持っているといくら口で言っても、行いがなければ、その信仰には意味がない。問題は、信仰と行いが一体化しているかどうかであって、信仰か行いかという二者択一ではない。そのことを著者は、「行いによって私の信仰をあなたに見せよう」という言い方で強調しています。「私は行いを持っている」という答えは、信仰と行いが分離できないということの宣言なのです。
まことの信仰は善い行い、つまり神の律法を行うことへの服従を含むのです。神の律法は、マタイによる福音書第22章37節以下に記されているように、わたしたちの主ご自身によって二つにまとめられました。第一の掟は「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4)であり、第二の掟もこれと同じように重要であって、「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)ということです。「隣人を自分のように愛しなさい」とは、なかなかに難しい教えです。主が言われたように、「自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得るのである」(マタイ10:39)。つまり、大胆な信仰の冒険です。
ここで著者は、アブラハムの例を持ち出します。創世記第15章で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨み、「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」という主の祝福の言葉に対して、アブラムの口をついて出たのは「主なる神よ、私に何をくださるというのですか。私には子どもがいませんのに」という冷淡な言葉でした。これは、信仰者が必ずどこかでもつ思いではないでしょうか。神はそのようなアブラムを、頭から叱りつけるのではなくて、外に連れ出して天を仰がせました。なんと素敵なことでしょう。「星を数えてみなさい。」「満天の星を数えきれるわけがない。」そして、「あなたの子孫はこのようになる」との言葉があり、アブラムは主を信じました。神の言葉によってアブラムの心が開かれたのです。大きな転換です。
アブラハムの義は、イエス・キリストを通して、そのまま私たちのものとなります。アブラハムが私たちの父であります。キリストを信じるとは、人間の側、自分のうちにもう可能性がないことが、神によって可能とされると信じることです。
娼婦ラハブも同様です。「卑しい女」と思われていたにもかかわらず、ただ神が憐れみをもって顧みてくださり、やはり、神の契約の民に加えられたのです。ラハブも、娼婦にかかわらず、同国人を裏切って、つまり、自分の共同体に対する自己愛を放棄して、使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出だす、という行いによって、神の契約の民と神の救いの歴史に参与したのです。ヤコブ書の著者はラハブの「行い」に力点を置きます。
信仰は冒険です。いつも人間的には計算しがたく、自分に執着する愛から解き放たれた実践へと導かれます。「自由の律法」(1:25、2:12)に生きるのです。そのような行いは、信仰と分離したことではありません。わたしたちの信仰とはそのような行いへと促し、神の律法を全うさせるいのちの祝福へ導き至る祝福を含んでいるのです。礼拝と祈祷会を大切にして歩む東小金井教会に集うみなさんが、日々、神の言葉に立ち続けて歩む幸いを覚えて共に歩みたいと願います。お祈りをいたします。