神の贈り物
2025年3月9日 申命記30:15~20、ヤコブの手紙1:12~18 関 伸子牧師 3月5日、灰の水曜日から受難節が始まりました。教会は、もっとも大切な祭としてキリスト復活祭を祝います。受難節とは、キリスト復活祭に向けて準備する40日の日々のことです。わたしたちはいつでも主イエスの死と復活を想起し続けているのですけれども、この期間には主イエスのご受難を特に深く心に留めます。 先ほどお読みしましたヤコブの手紙は冒頭で、「私のきょうだいたち、さまざまな試[…続きを読む]
置かれた町の平安を求め、町のために祈る
2025年3月2日 エレミヤ29:4~7、使徒18:5~11 柳沢 美登里(宣教主事) 今日は一つの質問から主のみ言葉を思い巡らしたいと思います。「無難」とう言葉からどのようなことを連想されますか。安心?今の自分から程遠い状況?昭和の家庭・教育環境で、私は「無難が一番」と聞いて育ちました。海外に長期滞在して、それが無意識の日本人特有の見方だったと気づくようになりました。 今日の聖書では、イスラエルの民も宣教中のパウロも大嵐の中に置かれています。エレミヤ[…続きを読む]
あなたに実現した神の言葉
2025年2月23日 イザヤ61:1~4、ルカ4:14~30 平 尚紀_牧師 (成瀬教会) イエス様が語られる言葉には愛があり、力があり、そして命が宿っています。今朝お読みしました「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」ってすごい言葉です。 いつか、そのうちというのではなくて、今日、たった今、しかも、あなたがたが耳にしたとき、聖書の言葉が実現したんだって宣言できる人はなかなかいません。それを直接に聞いたと当時の人達はどれほどに驚い[…続きを読む]
天の国への招き
2025年2月16日 イザヤ書30:18~21、マタイによる福音書15:17~20 関 伸子牧師 主イエスは「私が来たのは律法や預言者を排しするためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、感性するためである」(マタイ5:17)と厳かに語り始めます。これ以降の特徴は、権威に満ちた「私」の登場にあります。「私は来た」はマタイに四回現れますが、そのいずれもがイエスに向けられた誤解を訂正するために使われます。たとえば第9章13節では、ファリサイ派の人々の誤[…続きを読む]
神の言葉が聞こえるか
2025年2月9日 イザヤ書6:8~12、マタイによる福音書13:10~17 関 伸子牧師 マタイによる福音書第13章には「天の国のたとえ」が七つ集められています。主イエスは「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(3節b)と語り始めます。 家を出て行く主イエスこそが種蒔く人です。パレスチナでは、まず種を蒔いてからその後で土地を耕します。そのため無駄になる種も数知れず、収穫の率も決して良くはありません。しかし、農夫は豊かな実りを信じて種を蒔き続けます。あ[…続きを読む]