民をあがなう神の愛
2024年12月8日 イザヤ書59:12~20、マタイ13:53~58 関 伸子牧師 主イエスは、たとえ話を語り終えるとガリラヤ湖畔を去り、郷里ナザレに行きました。イエスが会堂で教えると、人々はそのすばらしさに驚きました。聖書の中には、「驚く」と訳されているギリシア語は、いくつかあります。しかし、ここに用いられているギリシア語、これはそう頻繁には使われないものです。「本当にびっくりする」。そういう意味の言葉です。 あっけにとられて、これこれのことを言った[…続きを読む]
主の光の中を歩もう
2024年12月1日 イザヤ書2:1~5、マタイ24:36~44 関 伸子牧師 待降節第1主日に、キリストの再臨を述べる箇所を読みました。キリストのご降誕を祝う者は、キリストの再臨を待ち望みながら生きてゆきます。マタイによる福音書第24章36節以下では、「目覚め、わきまえ、備えて」生きるべき存在だと教えています。 ノアの時代の人々は、洪水が襲ってくることにも、それがいつ起こるのかも気づくことができませんでした。洪水は人間には計り知れない神の思いに[…続きを読む]
神の言葉は生きている
2024年11月24日 ミカ書2:12~13、ヨハネの黙示録19:11~16 関 伸子牧師 先ほどお読みしました第19章11節以下は、「私は見た」(11,17、19節)という言葉によって三つの幻に区分されています。今日は第一の幻のところを読みましたが、ここに、天が開かれる光景が語られ、圧倒的な光の世界から白馬にまたがった騎手が登場します。白馬の騎士の目はすべてのものを透徹し、めらめら燃える火のように輝き、頭にはすべてのものを統治、支配する多くの王冠をいた[…続きを読む]
立ち上がろう! 笑いの中に
2024年11月17日 イザヤ61:1~4、ルカ6:17~21 潮田健治_牧師(隠退牧師) 「貧しい人々は、幸いである。」 イエス・キリストは、私たちが普通、不幸だろうと思うこと、しかしそれは「幸いである」と言うのです。見方が、逆になっています。見方が変わってしまう、というのです。 見方が変わってしまうということで、初めに、私がワクワク感を持った経験をお話します。私がいつも使っている相鉄線というローカル鉄道が、JR直通運転になりました。いつものホ[…続きを読む]
惑わされない歩み
2024年11月10日 創世記13:1~18、ガラテヤ3:1~14 関 伸子牧師 「ああ、愚かなガラテヤの人たち」。開口一番、厳しくガラテヤのキリスト者たちをしかりとばすパウロ。「愚かなガラテヤの人たち」。これは「物分かりの悪い」とも訳せる語で「無理解な人」、「分からず屋」を意味しています。理解力の不足ではなく、理解をまちがえた、ということです。しかし、次の瞬間にはやさしく問いかけます。「誰があなたがたを惑わしたのか」。十字架につけられたイエス・キリスト[…続きを読む]