滅びを恐れず
2025年11月30日 イザヤ書51:4~11、マルコによる福音書13:28~32 関 伸子_牧師 「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(マルコ13:31)。この箇所の中心になる主イエスの力強い宣言の言葉です。興味深いことは、主イエスが「私は決して滅びない」と言われているのではなく「私の言葉は決して滅びない」と言われていることです。滅びることのないキリストの言葉にだけ生きている教会においてこの言葉を聞く時、そこに光が射してきます。「私の言葉は滅び[…続きを読む]
キリストのまなざしの中で
2025年11月23日 サムエル上16:1~13、マルコ10:17~34 関 伸子_牧師 ある新聞社が「宗教を信じますか?」というアンケートをとったところ、「信じる」と答えた人は、わずか30パーセントだったのに対して、「霊的なもの、神秘的な何かの存在を信じますか?」という質問に対しては、65%もの人が「信じる」と答えていました。このことから私たちは、人間は神という存在を否定しても心のどこかでなんらかの不安を抱きながら生きているのだということを知ることがで[…続きを読む]
神を知らない時・知る時
2025年11月16日 イザヤ書46:1~7、使徒言行録17:22~29 潮田 健治_牧師(隠退牧師) 「パウロは…この町の至るところに偶像があるのを見て、憤りを覚えた。」とあります。偶像とは、目に見えない神をイメージして石や木に刻んで形に現したもののことです。だから、人間が、これが神だと思うものをイメージすれば、人間の数だけ偶像が出来ることになります。そう考え始めるともう大変で、日本では家を建てるに際しては、そこにいるかもしれない「知られざる神」を怒ら[…続きを読む]
神の言葉に立つ
2025年11月9日 創世記15章1~6節、ヤコブの手紙2:14~26 関 伸子_牧師 ヤコブの手紙が書かれた頃、当時の教会の中に、自分は信仰を持っていると言いながら、身近な隣人を助けようとしない人たちがいたのでしょう。著者は、ことさら「ある人が」と仮定の問題として提起していますが、実際には、教会内に存在している事実を示しているのでしょう。それは、自分には信仰があると言っている人間の存在です。教会は信仰者の集まりですから、教会員はすべて「自分には信仰があ[…続きを読む]
汚れはどこから来るのか
2025年11月2日 創世記4:1~11、マルコによる福音書7:14~23 関 伸子_牧師 マルコによる福音書第7章において、ファリサイ派の人たちが主イエスを問いつめたのは、弟子たちが「汚れた手」でパンを食べ始めたからです。私たちにとって、「汚れた手」といえば、洗わない手のことであるのは自明ですが、マルコはわざわざ「つまり洗わない手」と言い換えています。このような説明が必要だったのは、「汚れた」と訳されたギリシア語〈コイノス〉には「汚れた」という意味がな[…続きを読む]