惑わされることなく生きる
2020年11月8日
創世記13:1~18、ガラテヤ3:1~14
関 伸子牧師
ガラテヤの信徒への手紙は第3章のはじめに「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」と書きます。この呼びかけは、どうにもやり切れなくなった時に突然、叫びだしたということになるのではないでしょうか。第2章のおわりにおいてパウロは、恵みというものは分かり難いものであると言いました。そこまでにパウロは、自分の生涯の経路、すなわち自分がどのように恵みを受けてきたかを述べているのですから、それに比べて、ガラテヤの人びとが恵みを知ろうとしないことが、まどろこしくて仕方がなかったのです。
それよりも大切なことは、彼らが与えられた十字架がわかっていない、ということです。あなたがたが惑わされるはずがないと言うのは、いろいろな理由があるでしょうけれども、その中心は「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と言うのです。キリストを知るというのは、十字架につけられたままのキリストを知ることなのです。十字架につけられたということばも、昔、十字架につけられたというのではありません。あの時、十字架につけられたままの御姿で今もある、ということです。パウロは、あの十字架につけられたままの御姿を一度見たら、または聞いたら、だれもそれから離れることはできないはずのものである、と信じていました。
パウロは、ガラテヤの教会の人たちの、イエスの十字架を信じる信仰の確信や喜びがゆるんできたのは、聖霊を受けていないからだ、と言っています。聖霊というのは、電灯のようなもので、電灯がともらなければ何も見えません。聖霊は、私たちにイエスがキリストであることを示してくれるものである。
続けてパウロは、「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに・・・・・・」と言っています。「あれほどの体験をしたのは」と言っていますが、これは、よい経験であったのか悪い経験であったのか、はっきりしません。しかし、このように言っているところから見ると、信仰の戦いがあったことは考えられることです。
6節から、パウロは律法の問題について語ります。「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりである」と書きます。パウロは、律法は私たちの養育係であるという考えを持っていました。人間は、何も出来ない弱い愚かな者なのに、どんなことでも、いつかはできると思っているものです。創世記第10章に書いてあるバベルの塔の話は、人間の限りない自信をあらわしています。力を出せば神のようになれるというのです。アダムたちも、神のようになる、ということが最大の誘惑でした。自分に力があるということが、ついには、自分が神になることに通じるものであることに、気づいていないのです。律法は、神のみこころにかなわない自分を知らせてくれる。そのことによって私たち自身が、イエス・キリストに救われなければならない者であることを知るのである。その意味においてまさに、律法は養育係である。
パウロはアブラハムの信仰が正しい福音の聞き方を示している、と言います。アブラハムの信仰の特徴はどこにあったのでしょう。それは、聞いて信じた、ということであります。アブラハムが聞いたことは事実と違うことでした。子どもがないのに子孫が増える、ということでした。事実からは想像ができなかったことではありますけれども、その内容は、神の祝福でした。2節には「福音を聞いて信じたからですか」と書いてあります。福音はただ聞くほかない。しかし、聞くだけで信じなければ、何にもなりません。
パウロは、アブラハムの信仰を勧めましたが、彼の場合、アブラハムより確かな神の憐れみのしるしが与えられていました。それは、主イエス・キリストの十字架の救いでした。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われる』と書いてあるからです」と13節に書かれています。ここで「呪い」とされたような者が贖い主であるということは、極めて鮮烈な対比を示しています。十字架上の死刑囚が救い主だったのであり、復活した今もそうなのである。「贖い出す」という表現は、何度も買い取られる奴隷や娼婦(コリント一6:15)とは違い、キリストが罪人を一回限り買い取ったことを示唆しています。したがって、神のものとなった人々の体はすべて、もはや自分自身のものではなく、神のために生き、死ぬことによって神の栄光を現わすためのものなのである。
アブラハムの肉体から生み出されている実際の子孫に神が与える祝福の約束が、肉の約束です。これに対して、アブラハムの実際の子孫でなくても、アブラハムの実際の子孫の一人であるイエス・キリストを信じるキリスト者たちに神が与える祝福が霊の約束であります。イエス・キリストにおいて出来事となったことを、私たちは信仰によって受け入れるのである。私たちがこの神の約束に信頼し、聖書を読み(福音を聞き)、聖霊を受けている者として、多様性を認め合い、信じて生きる日々に祝福を祈ります。