救いの約束に従って
2020年11月15日
詩編77:17~21、マタイ5:38~48
関 伸子牧師
今日ご一緒に読む、マタイによる福音書第5章38節から48節は、山上の説教の続きで、まず「あなたがたも聞いているとおり・・・・・・と命じられている」という、昔の掟を想起させる主イエスの言葉で始まります。続いて「しかし、わたしは言っておく」という荘厳な宣言に導かれてイエスの斬新な命令が記されています。
「目には目を、歯には歯を」とは、誰かが人から身体的被害もしくは財産上の損害をこうむった場合に、被害の量と等しい刑罰もしくは復讐をすることができるという思想を表したことばです。この規定によって無制限の復讐が禁止され、闘争が避けられて、法的秩序と保護をそなえた社会形成が可能になったのです。復讐というものはだんだんエスカレートするものです。イスラエルとパレスチナの紛争ひとつを取ってみてもそうです。
しかし、主イエスはそこにとどまることを許されません。右の頬を打たれたら打ち返すことが権利としてはあるけれども、それをしないどころか、ほかの頬をむけることによって相手の意志を受け入れようと言われるのです(39節)。人を「訴えて、下着を取る」(40節)というのは、おそらく損害賠償か借金上の訴訟で、担保として下着をとる場合でしょう。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら」(41節)、人を「強いて行かせる」という語は元来ペルシャのことばで、官憲の命令で飛脚や伝令の道案内に徴用されることを意味しました。クレネのシモンに主の十字架を「無理に負わせた」場合にもこの語が用いられています(マタイ27:32)。強引に道案内や随行を求める。そのような人に対して、求めに応じるだけでなく、こちらから進んで奉仕をしなさい、と言うのです。
これまでのところで、主イエスは、本当に人を裁くことができるのはただ神のみであることを言われました。43節以下ではそれが積極的に正面から語られます。「隣人を愛し」といういましめはレビ記第19章18節にある「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」を簡略化したものであり、主イエスによって、神への愛のいましめ(申命記6:5)と並んで律法のうちで最大であり根本的なものとされました。
これに対して「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)との命令は、民族的・宗教的区別をのり越えて、隣人愛の姿勢を貫くことを要求します。ルカによる福音書第10章25節から37節の「よきサマリヤ人のたとえ」は、このいましめの生きた証しです。隣人とは、特定のだれかではなく、わたしたちが現在、具体的に出会っている人です。このいましめがどんなに社会倫理的に意味を持つものであるかを、マルティン・ルーサー・キング牧師の行動が例証しています。キング牧師は「汝の敵を愛せよ」という説教のなかで、「なぜ自分の敵を愛すべきか」と自問しながら、いくつかの理由をあげています。それは第一に、「憎しみに対して憎しみをもって報いることは、憎しみを増すのであり、すでに星のない夜になお深い暗黒を加えるからだ」と言います。第二に、「憎しみは相手の人格をも、自分の人格をもゆがめる」と言う。そして最後に、「憎しみをもって憎しみに立ち向かうことによっては絶対に敵を除くことはできない。われわれは、敵意を取り除くことによって、敵を取り除くことができる。愛は敵を友に変えることのできる唯一の力だ」と言いました。キング牧師は、自分を迫害する者に取り囲まれて、心のうちに葛藤を覚えながら、自分自身に語るように語ったのではないでしょうか。
45節以下には、愛敵のいましめの根拠が示されています。それは単なる要求ではなくて、神の子として「神にならう者」(エフェソ5:1)となることです。天の父の「雨を降らせる」という行為は、父なる神が御子から人々に聖霊を送る様子をも示しています。主イエスは、イエスを信じる人々が受ける聖霊について語った時、信じる人々の内からは生きた水が川となって流れ出るように降って来たものであることを容易に連想させます。天の父なる神は、善人にも悪人にも御子イエスを明白な形で与え、そのイエスを信じる者には、さらに新たな命を与える。こうして信仰を持つに至った人々も「父の子となる」のである。
先程、詩編第77編の17節から21節をお読みしました。17節以降は、神の不思議なみ業や、「贖った」という表現に暗示された出エジプトの出来事を神への讃歌として詠います。神に祈って思いを乱し、自らを見つめて神への懐疑におそわれるなかで、そのまなざしを自己の内から外に向け、歴史にはたらく神とその業を見据えた信仰者の姿があります。信仰は内面の葛藤を突き抜けたところ、外から開かれる世界であることを思わされます。
マタイ福音書第5章43節以下の結論として主イエスは、「天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われます。「完全」には、目標に到達するとか、規準に達するという意味のことばが使われています。「完全」とは、一点の曇りもない完璧さではない。曇り空であっても、大空がすべてを包んでいるように、すべてを包む神の愛の大きさです。この教えを聞いたわたしたちも、自分の常識によって生きる生き方や、自己満足の生き方を捨てて、イエスに従って、神の国の民とされる生き方を選び取りたいと思います。お祈りいたします。