歩むべき道を示される
2024年2月18日
出エジプト17:3~7、マタイによる福音書4:1~11
関 伸子牧師
2月14日、「灰の水曜日」から受難節が始まりました。その日、夜の祈祷会に久しぶりに出席した方がありました。その方は「神の霊に導かれてここに来たのだと思います」と言われました。そして、「どうしたら洗礼を受けられるのか」と尋られたので、「『イエスは神の子である』ということに『アーメン』と言うことができますか」と聞くと、「はい」と言われました。この問答を経て、今日から洗礼勉強会が始まります。
主イエスが神と等しい神の子であることは、何によって証明されるのでしょう。それは、イエスが奇跡を行う能力をお持ちだからか。あるいはイエスがしるし、すなわち不思議なことを行う能力を持つからなのか。あるいは、世の権力を掌握する能力をお持ちだからか。荒れ野の試みは、これらの問題について主イエスの霊的な苦闘を順次物語っています。
ヨハネから洗礼を受けた時、主イエスに霊を送り、「私の愛する子」と呼んだ神は、今、同じ霊によってイエスを荒れ野へと導きます。このことは矛盾するように見えます。しかし、「霊」は「神の霊」のことで、ここから11節まで、イエスを背後から守り支えています。神の霊のもとで悪魔が働いているのです。
荒れ野での四十日間の断食の後、主イエスは飢えを感じます。イエスは一人の人間として試練をお受けになります。3節では悪魔は「試みる者」、つまり、誘惑する者として登場し、その悪意が明らかにされます。悪魔の狙いは、イエスを神から引き離してこの世を自分の支配下に留めておくことです。
悪魔はイエスが「神の子」としての権威を用い、石をパンに変えるようにと誘惑します。イエスはそれを拒絶し、神の力を自分のために利用することなく、むしろ「神の口を通して出てくる言葉」に自らを委ねます。
「『人はパンだけで生きる者ではなく 神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」(4節)。これは、申命記第8章3節からの引用です。イスラエルの人々は、モーセを通してエジプトから導き出された後、放浪の旅をしなければなりませんでした。「そしてあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたもその先祖も知らなかったマナを食べさせられた」(申命記8章3節a)。神はただ人を困らせようとされたのではありません。ですから人を飢えたまま放っておかれませんでした。毎日毎日、マナという天から来る不思議な賜物で、直接、彼らを養われました。つまり神はパンを与えながら、それを通して、彼らを本当に養っておられるのは誰かということを教えようとされたのです。そしてこういう言葉が続きます。「この四十年の間、あなたの来ていた服は擦り切れず、足は腫れなかった」(同4節)。「私の恵みはあなたに対して十分であった」ということです。だから、「あなたがたは神の言葉によって生きるのだ」と言われる。「神の言葉で生きる」ということは、すべてのもの、食べ物も衣服も住まいも、家族もすばらしい音楽も、みんな神からいただいたものとして、感謝をもって生きることに他ありません。
次も悪魔は「神の子なら」と述べてイエスを試みます。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると 彼らはあなたを両手で支え あなたの足が石に打ち当たらないようにする』(マタイ4:6)。この表現はイエスの十字架の場面を思い起こさせます。その時、人々は「神の子なら、自分を救ってみろ」とののしり、祭司長たちも「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」と侮辱しました。悪魔にとっての神の子は、神殿の屋根から降りることのできる者であり、イエスを侮辱した者にとっては、十字架から降りることのできる者です。しかし、イエスが示す神の子は、すでに旧約聖書が教えているように、神を試すことなく、神が示す道をひたすら歩む者のことです。
二度の試みに失敗した悪魔は、いよいよ本性を現わしてきました。もう「神の子なら」などと遠回しなことは言いません。「世のすべての国々とその栄華」を見せて、もし自分のことを拝むなら、そのすべてを与えると誘います。「栄華」と訳されているのは「栄光」を意味する語です。悪魔は、神の栄光ではなく、世の栄光を選ぶようにとイエスを誘惑します。悪魔は、自分を拝んで、神であることを認めるようにとイエスに要求しているのです。しかし、イエスは「退け、サタン」と述べてこれを拒絶します。
最後に悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、すべての国々と栄華を見せ、悪魔を礼拝するように誘います。聖書において山は神の啓示の場所です。「世のすべての国々」(8節)を治める力がイエスに提示されます。しかし、その代わりに、神への反抗を企てる者に称賛をささげることが求められています。
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み ただ主に仕えよ』と書いてある」(10節)。イエスは悪魔に「退け」と言われた。これは「引き下がりなさい」と訳せる言葉です。「引き下がる」は「下に」と「導く」という語の合成語であり、何かのもとへ行くことをも意味します。主イエスが意図しているのは、その直後の言葉にあるように、神、主のもとに引き下がり、へりくだることです。悪魔は、元々、この神から遣わされたのだから。
「主なるあなたの神を拝み、ただ神にだけ仕えなさい」。このことだけがありとあらゆる誘惑に勝つ秘訣です。この御言葉によって、私たちは霊の助けをいただき、悪魔に頭を下げるのではなく、自分自身を神とするのでもなく、自分自身に似た偶像を拝むのでもなく、真実の神のみに、心から頭をさげ、そしてそのことの故に、この世において、なお許される限り、栄光をもって生きることができるのです。お祈りをいたします。