カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 失われない自由

    2024年3月24日
    詩編64:1~11、ヨハネによる福音書18:1~11
    関 伸子牧師

     ヨハネ福音書はいよいよ第18章から受難物語へと入って行きます。

    「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒にキドロンの谷の向こうへ出て行かれた」(1節)。キドロンというこの地名は、どういう意味なのか。今日では、ほぼその解釈は一致していて、「暗い谷」という意味だと言います。オリーブ山とエルサレムの都を隔てているのがキドロンの谷であったようです。他の福音書で言うとゲッセマネという名がつけられていました。オリーブ山の中腹にある庭園。主は弟子たちとそこへ入られた。主はいかにしばしば、ゲッセマネの園で祈っておられたことでしょう。そのことは、私たちにとって大きな励ましになります。ここで私たちが学ばなければならないのは、主イエスは祈りのための時間をとり、所を定めて祈っていたということです。

     「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは弟子たちと共にたびたびここに集まっておられたからである」(2節)。神と共に過ごし、祈っているところに、イエスを捕らえようとする人たちがきたのです。祈っていたらすべてうまくいくと思いやすいところがあります。祈っているのだけれどどうも思うようにいかないとか、祈りはほんとうに聞かれるのだろうか、そういう声を聞きます。一生懸命祈っていると、祈りが神に届いているかどうか無関心ではおられなくなります。逆説的に言うと、神を疑うほど神を信じていかなければならない。信じるとは不信との闘いだからです。

     イエスを裏切ろうとしていたユダ、という言葉をヨハネは繰り返します。このユダが裏切りの実行を決意したのは、この園に来る前になされた主イエスとの食事の場においてでした。そこで主イエスは、御自分から、弟子のひとりが御自分を裏切ることを予告され、私がパン切れを浸して与える者がそうだ、と言って、それをユダの前に差し出された(13:26)。そしてユダがそれを受け取った時に、サタンが彼の中に入った、とヨハネは書いています。

     ユダが案内をして連れてきた人々は、ローマの兵士と、祭司長やファリサイ派から遣わされた下役たちで、それぞれ手に、灯りと松明、そして武器を持っていました。灯りと松明は暗闇を照らすためのものです。このことは、主イエスを捕らえる、というそのことを、彼らは明るい日差しのもとで行うことができなかった、という事実を示しています。主イエスから渡されたパン切れをもって、夜の闇の中に消えて行ったユダが、その闇を引き連れて、ここに来たのです。

     主イエスのご受難の出来事が明らかにしているのは、私たち人間が抱え込んでいる闇が、どれほど深いものであるか、ということです。私たちの誰もがそこから自由ではないのです。神の子を死に追いやらざるを得ない私たちの中にある闇が、この時主イエスの周囲にいた人々によって明らかにされているのです。主イエスはユダの引き連れてきた一隊に捕らえられた。しかし「暗闇は光を理解しなかった(捉えられなかった)」のであります。

     「彼らが『ナザレのイエスだ』と答えると、イエスは『私である』と言われた」(5節)。彼らへの答えに対して、主は「私はある」とお答えになりました。イエスの宣言に対する逮捕者たちの反応は、「後ずさりして、地に倒れた」ことで、ここからもイエスの宣言の重みが読みとれます。「私である」。これは、ヨハネ福音書に、これまで何度も出てきた「私は何々である」(エゴー・エイミ)というのと同じ言葉です。旧約聖書の「出エジプト記」第3章14節の神の自己定義につながっています。イエススが進み出る姿には確信が溢れ、イエスが語る「私である」という言葉は聞くものを圧倒し、絶対の権力と力をもローマの一隊の兵士たちをも後ずさりさせるものです。

     二度目の答えを聞いて、主イエスはご自分がそれであることを再度語られ、さらに「私を探しているのなら、この人々は去らせなさい」という言葉を付け加えられました。それは「あなたが与えてくださった人を、私は一人も失いませんでした」という主イエスの言葉が実現するためであった、とヨハネは注釈をつけています。この言葉は第17章12節の言葉です。イエス・キリストは、旧約聖書にあらわされた「私はいる」という神様の名前を、ご自分の存在そのものとして語られました。

     私たちが受け入れ、私たちが迎え入れるのはまさのこのイエスです。十字架へ至る道は、必ずしも苦難の道ではない。確かにそこに死は疑いもなく存在しています。しかし、その死を貫いて復活のいのちへと続く道があることを知るならば、そしてイエスと共に歩むならば、十字架への道は勝利への道へと変わるのです。

     ヨハネが他の福音書記者たちに比べて、具体的で細やかな情報を提供している例として「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の僕に打ちかかり、その右の耳を切り落とした。僕の名はマルコスであった。」(10節)が挙げられます。二人の名前を明記しているのはヨハネだけです。主はペトロに剣を片付けるように命じますが、言わば主イエスの武器は神の言葉そのものであり、その神の言葉を実現する形で自らの使命を完遂されます。

     この一連の出来事の中に、お互いに対峙しているふたつの世界を見ることができます。ひとつには、私たち人間が造るこの世という世界です。妬みや裏切りが横行する世界、闇が支配する世界です。もうひとつは、神と主イエスが生きておられる世界、徹底して真実が貫かれる光の世界。主イエスがこの地上に立たれた、ということは、闇の世界に光が突入した、ということです。そして光は闇の中に輝く。輝き続ける。そこに私たちの救いがあり、希望があるのです。お祈りをいたします。