カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 平安のうちに遣わされる

    2024年4月7日
    出エジプト15:1~11、ヨハネ20:19~29
    関 伸子牧師

     マグダラのマリアは、主イエスと一対一の交わりをしていたので、復活の主イエスに「マリア」と声をかけられると、その声をおぼえていて、「ラボニ(私の主)」と反応しました。復活の出来事はすぐには分かりにくいことですけれども、復活した主イエスが度々現れることによって弟子たちは徐々に受け入れることができます。神の霊は、主が復活して、主の民の中におられることを悟らせます。

     ヨハネによる福音書第20章は18節以下に二つの物語を記します。19節から23節でイエスの顕現がテーマとされ、24節から29節ではトマスの信仰告白がテーマとされていますが、両者は次の点で類似しています。

     初めに、出来事の起こった日曜日であること。「週の初めの日」とは私たちが言う日曜日ですが、トマスにイエスが現れた日も、「八日の後」、つまり日曜日でした。なぜ二つの出来事、そして第20章のすべての出来事も、日曜日に起こったとされるのでしょう。やはり、初代教会が日曜日ごとに祝った祭儀との関連を考えるのがよいと思います。その場合、ヨハネの意図は教会が日曜日の礼拝ごとに、イエスの復活とトマスの信仰告白を信者に思い起こさせることにあったと言えるでしょう。

     次に、主イエスが弟子たちに語りかける最初の言葉はいずれも「平和(シャローム)」。シャロームはユダヤ人の間のごく普通の挨拶であるのは事実ですが、ここではそれ以上の意味を込めて使っています。ここでの平和は第14章27節、「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない」に約束されていた平和であります(エゼキエル34:25以下参照)。

     最後に、出来事の起こった場所。イエスが現れたのは、戸を閉ざした家(19節、26節)。19節に「ユダヤ人を恐れて」とあるので戸を閉めていた理由のひとつは明らかですけれども、それに尽きはしないのです。なぜなら、26節では「戸にはみな鍵がかけてあったのに」と、なんの理由も述べずにただ戸が閉ざされていた事実だけを述べているからです。こう述べることによってヨハネは、イエスの復活がいずれ再び死ぬことになるこの肉体への復帰なのではなく、それとは別のからだへのよみがえりであることを示します。別のからだをもったイエスは、閉じた戸を通り抜けることもできるけれども、同時に、望む時にひとの目に見ることができ、ひとの手で触れることのできるからだともなり得るのです。

     「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた」(19節)。弟子たちはイエス・キリストが殺された後、自分たちも捕まえされるのではないかと恐れていた。だから主が復活されたという知らせが届いても、彼らの心の不安と恐れは取り除かれなかったのです。

     そこにイエス・キリストが現れます。鍵までかけているのに、それを越えて入ってこられるのです。弟子たちはどきっとしたでしょう。主イエスは、その弟子たちの真ん中にたって、ただ一言、「あなたがたに平和があるように」と言われました。復活されたイエスのからだは手とわき腹に十字架の傷跡のあるからだでしたが、閉じられた部屋に自由に出入りできるからだでもありました。

     主イエスは弟子たちが宣教するにあたって一つの権能を与えられました。「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。この主のことばはどのように理解すべきでしょう。罪を赦す権威は神にしかありません。しかし、御父が御子を遣わしてご自分のことばを語らせたように、御子は弟子たちを遣わして十字架と復活に基づいて与えられる罪の赦しを宣言する権能を託したのです。

     しかし、12弟子の中でトマスだけは、主の復活の日に他の弟子たちと共にいませんでした。ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた弟子たちとは別行動をとっていたのでしょう。トマスはかつて、イエスといっしょに死ぬ覚悟だと勇気ある発言をした弟子です(11:16)。また、イエスがこの世を去って父のもとへ行くと言われた意味が分からず、愚問を発し、その結果イエスの有名な言葉「私は道であり、真理であり、命である」という言葉を引き出した人です。イエスにお会いした他の弟子たちはトマスに、「私たちは主を見た」と告げました。しかしトマスは、イエスの手に釘の跡を見、槍で刺されたわき腹の傷跡にさわらなければ決して信じないと首を降りました。

     主イエスは釘あとのついた両手と指し貫かれた脇腹とをトマスに示します。このことを28節のトマスの信仰告白は別の言葉で述べています。「私の主よ、私の神よ」。トマスは、よみがえられた主イエスを目の当たりにしたとき、それまでの懐疑を忘れて、甦らされた方のうちに、彼の主、彼の神を見出す。

     さらに弟子たちはイエスから息を吹きかけられ、霊を受けます。この霊は弟子たちを新たに創造しなおす霊(創世記2:7)であり、その使命を全うできるようにと与えられた力ですけれども、同時に、エゼキエル書第36章25節から27節に預言された、ひとを罪から清める霊でもあります。こうしてイエスは「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と弟子たちに約束します。

     私たちも日曜日に礼拝をささげ、その中で、「私の主よ、私の神よ」と告白するとき、イエスは私たちに、平和を与え、神からの任務を分け与え、霊を吹きかけて新たに生かし、私たちのうちに生きる。復活とはそういう現実なのです。新しい命にあずかった人間は、じっとしていることができません。この世へと押し出されていきます。祈ります。