カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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    2024年6月23日
    ヨナ書4章1~11節、エフェソの信徒への手紙2章11~22節
    関 伸子牧師

     新約時代のエフェソは豊かな商業都市であると共に、異教祭儀の中心地でもありました。異邦人であるエフェソの信徒たちは「以前は遠く離れていた」が、キリストと出会った今は「近い者」となりました。なぜなら、キリストは「規則と戒律づくめの律法」を廃棄し、ユダヤ人と異邦人の間にある敵意を十字架によって滅ぼし神との和解をもたらしたからです。

     「だから、心に留めておきなさい」という言葉で、新しい話がはじまります。だから、というのですから、その前に書いてあることを受けています。それは、新しく造られて、神の作品とされていることです。そのようにさせられるのだから、このことを記憶していなければならない、というのです。

     この話は、異邦人であった信者たちに対して言っていることです。このように新しい生活をするように造りかえられた今、忘れてはならないことがあります。いつでも覚えていてほしいことがある、というのです。それでは、なにを心に留めておくのでしょう。彼らは異邦人でした。異邦人であるのは、割礼がないということです。割礼は、神との関係をあらわそうとします。神との間に、特別な約束がある、というしるしです。

     それは創世記第17章7節に書いてあります。「私はあなたと、あなたに続く既存との間に契約を立て、それを世々にわたる永遠の契約とする。私が、あなたとあなたに続く子孫の神となるためである」ということです。
     世の中の生活には、何の約束もない。保証もない、だから、神を信じたい、という人があります。そういう人は多いかもしれません。しかし、神があると信じても、何の保証にもならないのです。大事なことは、神を信じることではなくて、神が、私たちの神になってくださることです。神が神となってくださるとき、神は、救いと守りの約束を与えておられることを信じることができるのです。

     割礼のなかった、神の約束を持っていなかった人々はどのような生活をしていたのでしょう。「その時、あなたがたはキリストなしに生き、イスラエルの国籍とは無縁で、約束の契約についてはよそ者で、世にあって希望を持たず、神もなく生きていました」(12節)とあります。これが、この人びとの実際の生活であったのです。

     まず、キリストなしに、と書いてあります。これは、その生活の全体を言い表したものといわなければなりません。次に、イスラエルの国籍がないことです。イスラエルの国籍から遠いということは、イスラエルの持っている約束、契約を持っていない、ということです。それゆえに、次には、この世の中で希望もなく、と続きます。希望は、すべての人にとって、最後の頼みです。何がなくても、希望さえあれば、人は生きられるのです。全く希望がなければ、生きられないのです。他の人からみて、どんなにつまらないものであっても、希望があるかぎり、生きていくことができます。昨年沖縄に行った時、沖縄戦の間ガマの中で、生きる希望を持った家族は命守られ、そうでない家族は自死していったと聞き、生きる希望を持つ大切さを学びました。

     そして、神もない者。神のない者といわれる異邦人は、実際には、異教の人でしょうから、神々を拝んでいた人であったかもしれません。それでも、彼らは、神のない者といわれるのです。パウロからいえば、多くの神を拝んでいるのは、神のないことです。

     ところが、13節に「しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました」とあります。エフェソの人たちは律法のゆえに神から「遠くにあった」者たちですけれども、その彼らが「キリスト・イエスの中で」、それも「キリストの血の中で」、神に「近くなった」のです。エフェソはキリストの十字架を通して、ユダヤ人と異邦人とを隔てている壁は崩され、両者は和解させられ、一つの民、一つの体、神の家族の一員とされたことを高らかに宣言します。

     「キリストは、私たちの平和であり」(14節)、キリストご自身が私たちの平和であるということは、「私たち」とは、異邦人を含めるすべての人々です。平和というものは単に争いを避ける消極的な働きではなく、壁や敵対心を壊す積極的な神の働きであり、キリストの肉体が最終的に十字架に掛けられて初めて成立したのです。

    「こうしてキリストは、ご自分において二つのものを一人の新しい人に造り上げて、平和をもたらしてくださいました。十字架を通して二つのものを一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼしてくださったのです」(15b~16節)。これは、パウロの言いたいことをよくあらわしていると思います。パウロは、いつでも、キリストの十字架による救いのことを言いたいのです。

     十字架という弱さから捻り出された平和は揺るぎないものです。今日、沖縄慰霊の日、縦の繋がりだけでなく、横の繋がりを再点検したいと思います。十字架を通して実現した平和とは、自らの強さを誇り、他者を包摂するような権力に対して、非暴力的に抗う真の強さを内に秘めています。過去を消去せず、傷あるままに二度と同じことを繰り返さないような平和実現に向けて努力を惜しまない強さを持ち得るのです。

     武力の強さが横行する今、十字架による敵意の超克に希望を見いだしたいと思います。「キリストは私たちの平和である」ことを心に刻み、弱さを持ちつつも種が時を待つように確実に根付き、揺らぐことのない新たな場を作ることを思い描きながら、平和は必ず成ることを信じて歩んでいきたいと思います。祈ります。