カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • あなたの信仰があなたを救った

    2024年6月30日
    詩編30:1~6、マルコによる福音書5:21~43
    饒平名 丈(よへな たけし)伝道師(泉伝道教会)

     本日の箇所は、主イエスがゲラサ人の地に行かれ、汚れた霊に取りつかれた男を癒された後、再びガリラヤ地方に戻られたところから始まっています。すると会堂長のヤイロが主イエスの足元にひれ伏し、娘が死にそうなので来て癒してほしいと願いでました。主イエスはその願いを聞き、ヤイロの家へと向かう途中、出血の止まらない病気の女性と出会います。この女性は群衆に紛れ、後ろから主イエスの服に触れて、直ぐに癒された出来事が語られています。その後再びヤイロの娘の話になっています。会堂長のヤイロという人ですが、会堂の建物と礼拝の準備の責任者で、当時はそれなりの地位と名誉がある人でした。そのヤイロが、主イエスの足元にひれ伏して願いました。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」(23節)

     このように、群衆の前で地位も名誉もなげ捨てて主イエス前に跪き、娘の救いを求めたヤイロとは対照的に、群衆に紛れて人知れず、主イエスの後ろからひっそりと救いを求めた人がいました。十二年間出血の止まらない病気で苦しんでいた女性です。彼女は「主イエスの服にでも触れればいやしていただける」という思いによって主イエスの服に触りました。主イエスはこの女性の思いを敏感に感じ取り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言ってその人を探そうとするのです。主イエスは人前での公の場での真摯な願いも、人知れぬところでの願いも、同じようにその思いを感じ取り、応えようとなさるお方です。

     この女性が患っていたのは、婦人病の一種とされていますが、当時のユダヤ社会では、その病気は“汚れたもの”とされていました。彼女の使うもの、彼女が触れる人も汚れるとされたのです。このため、彼女は他の人々との関係を築くことができませんでした。病気による肉体の苦しみと社会から疎外される孤独、この2つがこの女性を苦しめていたのです。病気を治すために時間も財産も全て使い果たしてしまった彼女の最後の望みは、主イエスに癒して貰うことでした。

     群衆の前に出ることが出来ないこの女性は、後ろから主イエスに近づき、主イエスの服に触れました。どんなことでもやってみるしかないとまで追い込まれていたのでしょう。その思いは「服に触れた」という行為で表現されています。主イエスの服に触れた女性は、すぐに病気が癒されたことに気付きました。主イエスはご自分に触れた者を捜し続けました。この女性を責めようとされたのではなく、本当の救いのために、この女性に出会おうとされたのです。病だけでなく、孤独が癒されるように、この女性がみずから進み出て、主イエス、すなわち神様との信頼関係へと入ってくることを待っておられました。本当の救いの中にその女性を招こうとされるのです。当然、彼女は恐れたでしょう、人や物に触れることすら許されていなかった彼女が手を伸ばして主イエスにふれたことを責められる気がしたでしょう。しかし、触れたことで自分の体が癒された、その実感を持つ中で、病を癒す力を持った主イエスに隠すことなく、自分の身に起こったことをありのまま話しました。

     さて、病を抱えた女性を癒された、その一方で主イエスは一刻でも早くヤイロの家に行かなくてはなりませんでした。しかし、主イエスは、この一人の女性のために足を止められました。「癒されたのだからその女性を探す必要はないではないか。これだけの群衆が押し寄せているのだから誰が触れたかなんて探す時間ももったいない。」とみなさまは思われるでしょうか。主イエスは、すべてをありのまま話したこの女性を受け入れ、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と言われます。この女性の「触れると直る」という思いは、いわゆる深い立派な信仰と呼べるようなものではないと言う人もいるかもしれません。

     しかし、主イエスは足を止め、その女性の信仰を見て下さいました。私たちの主イエスに対する想いも、信仰とはほど遠く、手が汚れていようとも、主イエスに向かって手を伸ばすこと、それを「信仰」と主イエスは言って下さるのです。私たちの自分勝手な願い、信仰と言えないような思いであっても、その中で必死の思いで主に向かってみずからをさらけ出し、畏れのなかで、ありのままの自分を告白することを、主イエスは信仰と呼んで下さるお方なのです。私たちは、敬虔なとか、りっぱな、とかからし種一粒もない、とか互いの信仰を比較し評価しがちです。しかし、あなたの周囲が、教会が、社会が、あなたの信仰を評価するのではなく、主イエスご自身が、私たちの信仰を見て下さるのです。私たちは、そこに、私たちの砕かれた心を見てくださる主イエスに、本当の救いと癒しをみるのではないでしょうか。

     私たちは主イエスとの出会いを語る時、自らの願いが通じ、奇跡的な業で願望がかなえられたから主イエスを信じたのでしょうか。主イエスが十字架上の死によって、私たちの罪を贖ってくださり、私たちと神様との和解をその死と復活によって示されたお方からの恵みを知ったからではないでしょうか。主イエスと出会うことで、私たちは神様と結ばれている、そのことに気づかされるのではないでしょうか。都合の良い時に自分勝手な思いで神様を求めるだけの、自分の想いに神様を従わせようとする人間の想いを、主イエスはご存じのまま、十字架に向かって歩まれました。主イエスが病に苦しむ女性に足を止められて、彼女の全てをありのまま受け入れ、彼女の想いを「信仰」と呼び救いを宣言されました。彼女はそれによって神様と共に歩むものとされました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と語って下さる主イエスとともに歩もうではありませんか。