カンバーランド長老キリスト教会

東小金井教会説教

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  • 神の子どもたちの喜び

    2024年8月4日
    士師記6:36~40、ヨハネの手紙一5:1~5
    関 伸子牧師

     「世に勝つ信仰」ということを教会学校に通っていた子どもの頃からよく聞いてきました。しかし、それがどういうことなのか深く考えてこなかったと思います。ロシアとウクライナ、パレスチナとイスラエルで戦争が終わらない。沖縄に基地はいらないと声を挙げている人の命が奪われる、そのような世で心痛める日々の中で「世に勝つ信仰」というのはどういうことか。今日みなさんとご一緒に読むヨハネの手紙一第5章にそのことが記されています。

     この手紙には、イエスをメシアと信じる者こそが「神から生まれたもの」(神の子どもたち)であり、その人たちこそ「世に打ち勝つ」という言葉が記されていますが、ローマ帝国とユダヤ教徒たちとの迫害にさらされ、さらには教会内にもイエスの神性を否定するような考えのために混乱する中で語られたということを覚えておきたいと思います。

     ヨハネの手紙一第5章1節から5節は、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(1節)とあり、「世に打ち勝つ者とは誰か。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」(5節)で囲い込まれています。双方に出てくるのは「イエス」という言葉です。イエスがメシア、これは口語訳などでは「キリスト」と訳していましたが、同じことです、「世に打ち勝つ」という信仰に生きる人は、イエスが神の子であられることも信じる。イエスがメシア、キリスト、わたしたちの真実の救い手であり救い主であることを信じ、そのイエスが神の子であられることを認める。この1節と5節が、ここでは大切な役割を果たしていることに同意するひとは多いと思います。

     「神から生まれた者は、世に勝つ」。「世に勝つ」とはいったいどういうことか。「この世」とは、「偽善者たち」や「反キリスト」のいる世であり、「神から生まれている」神の子を含むあらゆる者が、この世を打ち負かせるのは、その中に父なる神と御子イエス・キリストがいるからであると言うことができます。「世」は暗いと思われます。なぜ暗いのか。それはみなが自分本位に生きているからです。そういう世界の中に住んでいれば、私たちは失望するしかほかありません。
    しかし、イエス・キリストが何の価値もないこの私を愛してくださったということがわかると、失望しなくてすむのです。これが世に勝つということです。私たちはこのイエス・キリストの中に包まれることによって、慰めと励ましを受けて、この世知辛い、冷たく暗い世の中に勝っていくことができるのです。

     神に対する人の愛は、人が愛し合うべきであるという神の定めた戒めを守ることによって具体的に表されますが、このことが、重荷ではないということは、この世における喜びであることを示唆しています。

     イエス・キリストは人びとを愛し、悩み苦しむ者を愛し、最も小さい者たちをご自身の周りに置きました。しかし、その結果は、敗北であったようにも見えます。福音書の終わりは十字架です。けれどもその十字架は真の終わりではありません。復活が続きます。復活は、この人類を愛しぬかれた神の子が、最後に勝利することを意味しています。これは決して二千年前のことではありません。

     ある説教者はクリスマスにこう語りました。「神は危険を冒してくださいました。神の救いがそのような幼な子になられました。生まれたときは小さかったかもしれないけれども、やがて力溢れる権力者になられたということでもありません」。あのイエスが救い主である。このヨハネの手紙一では第3章16節にはこういうふうに書いていました。「御子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました」。主イエスが命を捨ててくださったところに愛があった。だからあなたがたもその友のために命を捨てるべきだという戒めもまた、ここから生まれてきました。
     聖書でいう「愛」は、わたしたちの自然の情愛ではありません。自然の情愛は、自分の本能や好みによって愛します。嫌な人は嫌なままです。しかし、今ここでは、神の戒めとして「愛する」ことが命じられているのです。愛は神の子イエスが低く降り、犯罪者としての死を引き受けてくださったところで明らかに示されました。だから、私たちが日々口にすべきは「キリエ・エレイソン、主よ、憐れんでください」なのです。主よ、ありがとうございます。そのようにまことの人イエスとなってくださったあなたがおられたからこそ、私たちは今、このように祝福の中に立つことができます。

     神を愛するのは神がわたしを生んでくださったからです。その意味でまことの父であり母であられるからです。わたしは生まれ変わった、そして生まれ変わった者は同じように神から生まれた者を愛する。わたしたちは何よりも教会員の間にあって互いに愛し合うということがよくわかるようになる。そこから愛が始まる。愛のレッスンがそこから始まる。そしてその愛が教会の壁を突き抜けて広がるのです。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、そのおきてを守るときはいつも神の子どもたちを愛します。

     すべてのものは神によって創造され、神は御自身が創られた世を愛されたからこそ、ひとり子キリストを私たちのもとにお送りくださったのです。私たちはすべて、望む前から「神の子どもたち」とされていることを、ただ喜び、感謝したい。すべての方に、主が共におられる事実がもたらす豊かな慰めがありますように。