惑わされない歩み
2024年11月10日
創世記13:1~18、ガラテヤ3:1~14
関 伸子牧師
「ああ、愚かなガラテヤの人たち」。開口一番、厳しくガラテヤのキリスト者たちをしかりとばすパウロ。「愚かなガラテヤの人たち」。これは「物分かりの悪い」とも訳せる語で「無理解な人」、「分からず屋」を意味しています。理解力の不足ではなく、理解をまちがえた、ということです。しかし、次の瞬間にはやさしく問いかけます。「誰があなたがたを惑わしたのか」。十字架につけられたイエス・キリストが目の前にはっきりと示されたのに、ガラテヤの信徒たちは惑わされた。本当に注目すべき者から目をそらさせている。それは、十字架につけられ死んだイエス・キリストが、死人の中からよみがえってもなお変わること十字架につけられた方として存在なさるのに、ガラテヤの信徒たちは惑わされていたのでパウロはこう言ったのです。
ガラテヤの教会の人たちの、イエスの十字架を信じる信仰の核心や喜びがゆがんできたのは、聖霊を受けていないからだ、とパウロは言っています。この手紙の中でこの箇所で初めて用いられています。神の霊は、個々の人間の生活に変化をもたらし、信仰と支え合いの共同体をつくり出しました。聖霊はガラテヤの教会の人たちの中心にあって力を与える現実となったのです。
イエスがキリストであることは事実なのですけれども、見えなければ存在しないのと同じです。聖霊の働きがなければ、だれもイエスを主と告白することはできないのです。聖霊というのは、電灯のようなもので、電灯がともらなければ何も見えません。聖霊は、私たちにイエスがキリストであることを示してくれるものです。私たちの目は、肉の世界のことは見えますけれども、霊の世界のことは見えません。具体的な生活の中で私たちに見えるものは限られています。心もそうです。解剖して見ることはできません。そのように、主イエスの力は私たちの肉の目では見ることができないのです。ただ、聖霊に照らしだされることによって認めていくことができるのです。
6節から、パウロは律法の問題について語ります。パウロは、律法は私たちの養育係であるという考えを持っていました。私たちは、律法から解放されていますが、律法と無関係ではありません。律法の奴隷でもありません。律法によって神の御心を示されていくのです。法律にふれる罪は悪いが、道徳に反する罪はそれほどでもない、というのが人間の考える世界です。神の前にあって律法は、神の御旨にかなわない自分を知らせてくれます。そのことによって私たち自身が、イエス・キリストに救われなければならない者であることを知るのです。その意味においてまさに、律法は養育係です。
創世記第13章9節にこうあります。「あなたの前には広大な土地が広がっているではないか。さあ私と別れて行きなさい。あなたが左にと言うなら、私は右に行こう。あなたが右にと言うなら、私は左に行こう」。
パウロは突然、2千年の時間を飛び越えて、アブラハムの時代へわたしたちを連れて行きます。神は、アブラハムが祝福を約束された神を信じたことをアブラハムの義とされました。それと同じように、神はガラテヤ人がキリストにある祝福を約束された神を信じたから、彼らを義と認められたのです。ですから彼らは、ユダヤ人でも異邦人でも「信仰による人々こそアブラハムの子孫」であることを知らなければならないのです。実に、「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを見越して、『すべての異邦人があなたによって祝福される』という福音をアブラハムに預言しました」(ガラテヤ3:8、創世記12:3)。聖書はアブラハムの時代から21世紀の今日まで、信仰義認の福音を語り続けています。
「ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子孫であるとわきまえなさい。・・・・・・それで、信仰による人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されるのです」(ガラテヤ3:7,9)。こうして、キリスト者の経験からも、聖書からも、いつの時代のどこの国の人でも、恵みによって罪人に祝福を約束される神を信じる人を、神は義と認めて永遠の祝福を与えてくださることが明白になったのです。
神の呪いを表す木にかけられたイエスに、ユダヤ人は「呪われよ」(コリント一12:3)と叫びました。しかし事実はどうだったでしょう。イエスはそのユダヤ人を含む私たち全人類の身代わりとなって、神からのろわれたのです。主イエスは、キリストにあるすべての物を、律法ののろいから永遠に解放してくださったお方です。そしてキリストによってのろいから解放された者には、キリストによって祝福が与えられます。それはまさしく神の「アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶ」ことであり、信仰によるアブラハムの子孫であるすべてのキリスト者がキリストを信じる信仰によってアブラハムへの神の祝福、「約束の聖霊」を受けることなのです。
わたしたちもまた神に招かれた神の民のひとりです。その招きに応えて歩んだアブラハムの姿を想いつつ、わたしたちもまたその後に連なる者として、「信仰の人」として生きることを願い求めましょう。神による希望と祝福と永遠のいのちに至る道を共に歩んでいく幸いを覚える一人一人でありたいと願います。祈ります。