主の光の中を歩もう
2024年12月1日
イザヤ書2:1~5、マタイ24:36~44
関 伸子牧師
待降節第1主日に、キリストの再臨を述べる箇所を読みました。キリストのご降誕を祝う者は、キリストの再臨を待ち望みながら生きてゆきます。マタイによる福音書第24章36節以下では、「目覚め、わきまえ、備えて」生きるべき存在だと教えています。
ノアの時代の人々は、洪水が襲ってくることにも、それがいつ起こるのかも気づくことができませんでした。洪水は人間には計り知れない神の思いによって起こされる出来事です。したがって彼らが「気づかなかった」事柄は、すべてを滅ぼす洪水をいつでも起こすことのできる神の権威だと言えます。人の子が到来する時にも、同じように人々は神の権威を理解せず、神を畏れない生活を送っています。
ノアの洪水では、善人と悪人が神の目によって区別されていますが、人の子が到来する時、畑で働く二人の男や臼を挽く二人の女の間にある善悪の区別は人間の目には分かりません。しかし、彼らの結末は「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」。これは神の好意であることを暗示する受動態で表現されています。人間の目には同じように見える二人でも、神はその違いを見分けて別々の運命を与えます。神を覚えて生きているかどうかを、神は明確に見極めることができるからです。ともに働く仲間であっても、主の来臨はそれを二つに切り裂きます。神の目をごまかすことはできないのです。
ノアの時代という過去を想起させ、次に将来起こることを描き出した後、それに向かう現在に注意が向けられます。「目を覚ましていなさい」(42節)、「用意していなさい」(44節)と命じるのは、主はいつ来るか分からず、しかも主は思いがけない時に来るからです。
先ほどイザヤ書第2章1節から5節をお読みしました。イザヤ書第2章の特徴は諸国民が主の山を訪ねる目的にあります。彼らは献げ物をささげて祭りを祝うためではなく、むしろ「シオンから出る」教えを聞くためにやってきます。その教えに耳を傾けるとき、諸国の間から争いが完全に姿を消し、「剣を打ち直して鋤とする」日が到来します。とするなら、シオンを「どの峰よりも高くそびえる」山にするのはこの教えなのです。
シオンは諸国民からの尊敬を受けるような、威厳に満ちた高い山ではありません。およそ目立たない山です。しかし、シオンを諸国民の巡礼地としたのは、山の容姿ではなく、そこに御自身を現わす神の偉大さなのです。そこで人の目には目立たないシオンが、「山々の頭」として高くそびえることになります。ユダに残された少数の敬虔な人々にとって、前7世紀前半のアッシリア支配下におけるマナセの長い治世は、文字通り、暗黒の時代でした。イザヤはそのことを十分に知っているがゆえにこそ、また現実にさからう神の約束への信頼のゆえに、イスラエルの人びとに語りかけます。ここでイザヤは主の神殿の山が高くそびえる「終わりの日」の到来を語ってから、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」と語りかけています。イザヤは暗黒の時代を迎えるにあたって、ユダの人々に歩むべき道の光を指し示すことができたのです。
来臨は今をどう生きるべきかを教えます。それは現在と関わります。来臨は神を忘れて生きる者には滅びの日となるでしょう。しかし、イエスを通して示された神の愛に信頼をおく者には救いの日なのです。決して「さらわれる」ことはありません。
今日の二つの朗読に含まれる勧告、「主の光の中を歩もう」、「目を覚まし、わきまえ、容易していなさい」はごく常識的な戒めです。しかし、私たちが見落としがちなのは、この戒めが特別な時、「終わりの日」、「眠りから覚めるべき時」、「人の子が来る」、と関連づけられていることです。
わたしたちの生活の中の終末とは何でしょう。それは、人の死であるかもしれません。また、一日の終わりの時、分かれの時かもしれません。自然界では、木々が葉を落とす時、一粒の麦が地に落ちる時も私たちが目にする終末の時かもしれません。ルターは、「明日、世の終わりが雇用とも、私は今日リンゴの木を植える」と言ったと伝えられています。私たちも終わりの日を見上げながら、今という時を十分に行きたいと思います。
「天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない」(35節)とあります。「天地は滅びる」という明らかな予告です。この「天地」というのは私たちを含んでいる。私たちのことです。もともと「天地が滅びる」ということは、言い換えると、「神が天地を作ってくださった」という私たちの信仰の告白の裏返しでしかありません。天地を造り、私たちの存在をお造りになったのは神です。神さまが無から造ってくださったのです。何もないところから始められた。そして主イエスは、その神のわざが終わる時、再び、すべては無に帰することは事実だと言われる。主イエスはその時、その無に帰する私たちの滅びが滅びにならないで済む道が、み言葉において、開かれていることをよく知りなさいと言われるのです。私が語ってきた言葉は、その滅びを貫いて生きる。それが、私たちの〈いのちの言葉〉である。そのように私たちに語りかけられるのです。
やがていつかどこかで私たちは主とお会いすることになる。そのような希望、「主の来臨の希望」を心に抱きつつ、「その日、その時」に至るまで、私たちは自分に与えられたそれぞれの持ち場で、主のいのちの言葉を聴き、主のわざに励み、主にある希望を語り、光の中を歩み続ける者でありたいと思います。祈ります。