第一歩を踏み出せ!
2025年1月19日
エゼキエル書2:1~3:4、マタイによる福音書4:18~25
関 伸子牧師
イエスさまはガリラヤ湖のほとりを歩いておられました。歩きながら、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を売っているのをご覧になって歩み寄ります。招かれた人たちは漁師でした。ペトロはベトサイダ出身で、後にカフェルナウムに移り住み、結婚もしていました。彼は強くなまった言葉を話したようですし、律法の教育を受けていない普通の人でした。アンデレは元々洗礼者ヨハネの弟子であり、洗礼者ヨハネがイエスを「神の子羊」と呼ぶのを聞いて、イエスに従いました。アンデレは、洗礼者ヨハネの逮捕の後は、兄弟ペトロと再び漁師をしていましたが、その時にイエスから召命を受けたのです。この二人は、いわゆるイエスの12弟子の中で最初の弟子たちです。
ここで注目すべきことは、弟子となる人が師を探し、入門して師の教えを受け継いだのではなく、師であるイエスが弟子となる人を探し、言わば入門させ、自分の教えを説いたという点です。
イエスは、魚を捕る漁師であったペトロとアンデレに、「人間の漁師」(直訳)、つまり、「人間を捕る漁師」にしようと言いますが、この両者には質的に差があります。魚を捕る漁師は、魚を殺して食べるために捕るのであり、または、捕った魚を人々に売り渡すために捕ります。しかし、イエスの言う「人間を捕る漁師」は人間を殺して食べるためにではなく、人間に永遠の命に至る食べ物であるイエス自身を与えて、人間を生かすために捕るのであり、捕った人間を誰かに売り渡すためにではなく、死に至る罪から買い戻すために捕るのです。主イエスはこう言われました。「私について来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」(マタイ16:24)。ある意味で主イエスは私たちの全部を求めているのです。
「二人はすぐに網を捨てて従った」(20節)。「捨てて」、はギリシア語で「立ち去らせる」「見捨てる」「なすがままに任せる」という意味があります。彼らはイエスの呼びかけに答えて、すぐに、なすがままに委ねて従ったのです。
主イエスは進んでゆき、別の二人の兄弟をご覧になって、彼らに言葉をかけると、彼らは網や父親を残して、イエスに従いました。マタイはとても簡単に書きます。しかし、シモンとアンデレの召命の場合にも、ヤコブとヨハネの召命の場合にも、共通のことがあります。二組の兄弟の召命は、イエスが彼らを「ご覧になって、呼ばれた」ことによって起こっています。働いているところをご覧になったということです。日常生活のなかに踏み込み、それを変えてしまうのです。皆それに従っただけです。普通の人間にすべてを捨てるという行為を可能にさせたのは、主イエスがご覧になって、呼ばれたからです。これが人の生き方を根本から変えていくのです。イエスの弟子となるためには、ご覧になって、呼ばれるイエスの視線に自分の目を合わせることが必要なのです。
先週私たちの教会に説教者としてお迎えした松本雅弘牧師はこの箇所にふれながら、「私に付いて来なさい」という言葉を聞いて、「牧師になるように言われたらどうしよう」と思ったそうですが、結局、大学を卒業して1年後には牧師になる道を歩んできました。
ここでいつも思うのは、弟子たちは「すぐに」網を捨て、「舟と父」を捨ててイエスに従いましたが、私は「すぐに」従えなかったということです。しかし、人生の後半で網を捨てて主に従う道が開かれ牧師となり、松本先生が高座教会で担任牧師をされている時に副牧師として3年間、お仕えする恵みにあずかりました。私たちが主に従うことができたことに十分な理由があるのでしょうか。主が呼んでくださったのです。私たちは主に呼ばれたのです。それだけで十分なのです。
主に従う者は人々が生きる世界へと招かれています。そこには憎しみや不信や争いがあります。孤独や悩み、貧困や差別があります。そのような世界へと私たちは福音(よき訪れ)を伝えるようにと招かれています。それゆえ、主に従うということは単なる抽象的な教義や思想ではなく、主の招きに応えて、具体的に第一歩を踏み出すことが重要なのです!
ボンヘッファーという牧師・神学者は『キリストに従う』という著書の中でこう書いています。「信じるならば、第一歩を踏み出せ! その第一歩がイエス・キリストに通ずるのである。信じないならば、同じく一歩を踏み出せ。・・・・・・あなたが信じているか信じていないかを問う問いは、あなたに委ねられているのではない。従順の行為こそあなたに命じられている・・・・・・のである。その行為においてこそ、信仰が可能となり、また信仰が現実に存在する状況は与えられるのである」(『キリストに従う』47頁)。ここに、新しい生き方が示されています。彼らはまず利己心、あるいは自分を捨てたのではないだろうか。
だからこそ、弟子たちは「網を捨てて」、「舟と父を残して」イエスに従いました。そこには大きな犠牲があります。職業を捨ててどうやって生活をしていくのでしょうか。家を失ってどこに安住の地を求めるのでしょうか。しかし、彼らはイエスに信頼を寄せていました。自分たちの未来をイエスと神の国に賭けたのです。私たちも、「さあ、ここから主に呼ばれた者として出ていきなさい」と主イエスが言われるのを聞いて、また、日常の平凡な生活に戻ります。家庭に戻ります。会社に戻ります。それだけのことなのかもしれません。しかし、私たちは主イエスに召されている。主イエスに呼ばれているのです。
祈ります。