中心の移動
2025年1月26日
イザヤ書8:23b~9:6、マタイによる福音書4:12~17
関 伸子牧師
1月19日から6週間イスラエルとイスラム組織ハマスとの停戦合意により停戦していますけれども、聖なる地と呼ばれるところが戦争をしているというのは、どういうことでしょうか。愛そのものであった主イエスが、そこを歩まれ、それだけに特に愛されたその土地が、今なお、最も激しい憎しみが宿っていることを思うと心が痛みます。
マタイによる福音書第4章12節以下のところに書かれていることは、この福音書記者が、主イエスのパレスチナの地において歩まれた歩みを、心をこめて書いている記事です。主イエスは、悪魔との対決を終え、洗礼者ヨハネが投獄されたことを聞き、御自分が公に活動する時が来たことを知り、「異邦人たちのガリラヤ」と呼ばれているガリラヤで伝道するために退きました。「捕らえられた」とか「退かれた」という言葉、一つ一つを選んでいくときに、福音書記者マタイは、そこに主イエスのこれからの姿と、これまでの歩みとをはっきり書き記しているようです。そのように言葉の意味を尋ねて読んでいくと、「そして、ナザレを去り」という言葉が出てきます。この「去る」と言う言葉は「捨てた」という意味です。主イエスは故郷をお捨てになった。そして「カフェルナウムに行って、住まわれた」。
ゼブルンとナフタリは、いずれもユダヤ民族の種族の名前です。部族の名前と言った方が分かりやすいかもしれません。かつてユダヤ民族の十二部族がそれぞれ分かれて住んだ時も、このゼブルンとナフタリの部族がガリラヤに主として住んだということを意味します。「河畔の町カフェルナウム」というのは、明らかにガリラヤ湖という意味を持っています。「ヨルダンの向こう」というのは、エルサレムなどがあるユダヤの地方から見て、ヨルダン川の向こうと言う意味です。絶えず異民族に攻め込まれていました。しかも異民族は、当時の略奪国がよくやったことですが、すぐに雑婚させます。ユダヤ人の血の純潔を乱してしまうわけです。そのようにして、民族の血の上においても、宗教的な問題においても、絶えず悩み苦しんだ土地です。エルサレムの都に住む人びとからすれば、田舎者が住んでいるところ、メシアが現れるとすれば、それはこちらなのであって、あんなところにメシアが現れるはずがないと思われているところ、そういう意味で、暗黒の地と思われていたそのガリラヤの一つの中心地であるカフェルナウムの町に主イエスが住まわれたのです。自分自身の命を捨てながら、しかし、神の真理を語り続けるために、そこに住まいを定められたのです。
主イエスは、「その時から、イエスは、『悔い改めよ、天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」(17節)。いよいよ天国は近づいてきた。その時私たちがしなければならないのは、「悔い改め」、「心の向きを変えなさい」と訳せる言葉です。神さまはもう近づいておられる。天国の到来において今近づいてこられる神に向かって、わたしの現実の中にこられる、生ける神に向かって変わるのです。それは、自分が闇の中にいるということを認めることです。闇の中にいるのですから、光の中におられる神、いや光そのものである神を知るために、神に向かって向きを変えなさい、ということです。
ゼブルンとナフタリは、もともとユダヤ部族の名前でしたが、この部族が住んだ北ガリラヤ全体を指す地名にもなっていました。イザヤ書第8章23節b以下には「ガリラヤ」という地名に加えて「先に、ゼブルンの地とナフタリの地は 辱められたが 後には、海沿いの道、ヨルダン川の向こう 異邦人のガリラヤに栄光があたえられる」とあり、続いて、第9章1節「闇の中を歩んでいた民は大いなる光を見た」とあります。マタイはガリラヤに移り住んだイエスこそ闇の中を歩む者にとっての大いなる光であり、死の陰の地に住んでいた者たちに射し込んだ光だと悟ったのです。これはメシア到来を予告する言葉です。それは神の奇跡を待ち望むユダヤ人の希望の根拠でもありました。「ガリラヤ」という地名をマルコの記述に見たマタイは、ここにイエスが誰であるかを告白する手がかりを見出しました。
イエスこそ人々が熱望していた「大いなる光」であり、神の救いが実現する時が始まっているのです。イザヤの言葉がイエス出来事の意味を理解させました。その理解によって預言の言葉がより生きたものとなります。心に蓄えられた御言葉が出来事に出会うとき、私たちの日常のただなかに御言葉が生きて働きだすのです。
神さまは、御自分の計画を進めるのに不思議な方法を取られます。中心ではなく、まず端っこを選ばれるのです。誰もが中心と思うのは、繁栄しているところ、人の眼をひくところ、尊敬を受けるところでしょう。しかし、神はまず端っこを選び、そこから中心へと向かうことによって、私たちの世界観、価値観をくつがえされるのです。世界の中心であるお方が、世界の端っこにおられる。それによって端っこが中心となるという逆説です。しかし、中心が捨てられたわけではなく、端っこから中心へと向かうのです。主イエスも最後はエルサレムへ向かわれました。
権力者に捕らえられたヨハネの後を、ご自分の行く先をよく分かりながら後を追っていかれた主イエスの歩みを、罪の赦しを願いながら受け止めたいと思います。なぜか。ヨハネと違って、主イエスは、十字架につけられたからです。まさにその一点において、主イエスはヨハネと違って、そのヨハネが指し示したように、私たちにとって本当の光となってくださったからです。ここに私たちの救いに至る道が鮮やかに示されていることを、私たちはよく知りたいと思います。祈ります。