主と共に歩む
2025年2月2日
詩編84:1~13、マタイによる福音書21:12~17
関 伸子牧師
主イエスの時代のエルサレム神殿の境内には、一番外側に「異邦人の庭」と呼ばれる所があり、そこにはささげ物の鳩を売る店や、外国貨幣をユダヤやフェニキアの金に換える両替人もいました。各地から人々は神殿に集まって来ましたが、彼らは神殿に納入金を支払うため、ギリシアやローマの通貨を、ユダヤの通貨に両替しなければならなかったからです。両替人は、集まってくる人々から多くの手数料を取って莫大な金儲けをしていました。また、神殿にささげる犠牲は、それがささげ物にふさわしいかどうか祭司に調べてもらわなければなりませんでした。
そこで、あらかじめ調べられた物が神殿の境内で売られており、それを買う方が気軽でした。鳩は特に貧しい者のささげ物として用いられました。鳩を売る店は、神殿と結託して、たとえば町で50円するものを750円もの高値で売るという具合です。しかし、こうしたことは、もしかしたら現代の私たちの姿かもしれません。そもそも信仰が中心ではなく、自分中心になっていないか、省みる必要があるでしょう。
主イエスは、神殿の境内に入り、「『私の家は、祈りの家と呼ばれる。』ところが、あなたがたは それ強盗の巣にしている」(13節)、というイザヤ書第56章7節とエレミヤ書第7章11節からの言葉がお語りました。ここで、祈りとは神に対する正しい礼拝全体を示し、神がエレミヤを通して、イスラエルの民による盗み、殺し、姦淫、偽証、異教の神々の礼拝などを非難したことから、神殿は宗教的な敬虔な場所であるはずなのに、商人たちは強盗のように、人々から不当な利益を得ていることを非難されたのです。商売人や両替人を追い出すことは、神殿そのものに対する「否」を表す行為でありました。
後にイエスは、強盗にでも向かうようにしてやって来た群数に捕らえられ、強盗と共に十字架に掛けられましたが、神殿で売り買いをしているイスラエルの民こそ、救いに関する教えを独占することで多くの人々から救いを取りあげる強盗であり、神殿をそのような強盗たちの集まる場所にしてしまったのです。
「境内では、目の見えない人や足の不自由な人びとが御もとに来たので、イエスは彼らを癒された」(14節)。ここにとても不思議なことが記されています。それはサムエル記下第5章に書かれている、ユダヤの王ダビデがエルサレムを占領した時の物語です。「その日、ダビデは言った。『エブス人を討とうとするものは誰でも、水汲みのトンネルを抜けて町に入り、このダビデを憎むという足の不自由な者、目の見えない者を撃て。』このため、目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない、と言われるようになった」(8節)。この時以来、エルサレムの神殿に、目の不自由な者、足の不自由な者は入ることを許されなくなっていたからです。それはダビデ王が好まなかったからです。ダビデ王を軽蔑する種に用いられたからだという理由です。ダビデ王は、からだに欠陥のある者を差別し、軽蔑することをもって、自分の力を誇るひとつの方法としたのです。そして、そのダビデの権威だけに生きる、この神殿は、これらの人びとを入れることを禁じ、神の宮の営みを続けたのです。しかし、主イエスの宮清めの大混乱の中で、それに乗じて、この時、初めて目の見えない者も足の不自由な者も、その神殿に押し入り、神殿の庭におられるイエスの足もとにうずくまったのです。
そこで「不思議な業」(15節)が行われたと記していますが、ふつう「奇跡」を意味する語とは違う「驚くべきこと」という言葉が用いられています。新約聖書が、主イエスの奇跡を、この「驚くべきこと」という言葉で読んだのは、ここがただ一か所です。なぜここでこの言葉を用いたのか。祭司長、律法学者たちも驚かなかったからです。驚くべきものに直面しながら、彼らは驚かなかった。驚いたのは子どもたちです。主イエスは盲人や歩けない人のもとに来て彼らを癒されました。ところが、神殿の中にいた子どもたちまでが、イエスに対して「ダビデの子にホサナ」と叫んだのです。叫ぶのを見た祭司長や律法学者たちは、腹を立てました。
主イエスは子どもたちまでもが詩編から救いを歌うのを聞いて、同じ詩編の言葉を再び適切に引用して(詩編8:2~3)、メシアは幼子や乳飲み子たちからも賛美されると答えました。これは、真っ先に賛美すべき大人は心がかたくなで偏見であったために賛美しないが、幼子や乳飲み子は純真なので、すなおにイエスをメシアとしているのだという意味が含まれています。神の救いの力強さは、この世の弱い所に現れるのです。
至るところに争いがあります。しかし、主イエスはお生まれになりました。主イエスは十字架に死なれ、お甦りになりました。そして「今から始まるのだ」と言われました。あなたがたの罪からも自由になる。あなたがたはもう強盗ではない、今はもういつでも祈る人間になったと、霊によって、教えてくださるのです。
今、私たちのそばに立ってくださっている主イエスに目を向け、イエスに近づくことが「祈り」であり、「あなたは歌える」との励ましに促されて、私たちは、主イエスと共に歩み、常に祈り、賛美する、そのように礼拝を続ける神の民でありたいと願います。祈ります。