永遠のいのちを信じる
2026年5月17日
イザヤ書5:1~7、ヨハネによる福音書17:1~8
関 伸子_牧師
ヨハネによる福音書第17章は、「大祭司の祈り」と呼ばれます。直前の第16章33節で「私はすでに世に勝っている」と高らかに宣言された主イエスは、入念に、特別の祈りをささげられます。
「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子に栄光を現わしてください」(1節)。イエスは目を天に向けて、祈りの姿勢をとられました。イエスは御父に対する深い信頼の思いを込めて天を仰ぎ、「父よ」と呼びかけています。主は祈りの中で再度、十字架の時がきたことを告白します。これまで「私の時はまだ来ていない」と言われていましたし、福音書記者ヨハネも「イエスの時はまだ来ていなかったからである」と記していました。しかしその後、第12章23節では、「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られました。そして続けて、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)と言われました。主イエスが栄光を受ける時というのは、死ぬ時に他ならなかったのです。そして、それがいよいよ実現しようとしているのです。
ここで主イエスは、自らの死が「神の栄光」を現す時であると告げ、唯一の真の神を知る「永遠の命」を弟子たち、そして信じる者たちに与えるため、父の言葉を弟子たちに伝えたと祈っています。
十字架という最も悲惨な状態を、主イエスは栄光をあらわす時だと言われました。わたしたちはこの十字架を栄光とまで思ってもいないし、できれば避けて通りたい、十字架は小さいほどよいという考えを持っているのではないでしょうか。けれども十字架を負うこところにわたしたちの目標があります。その十字架はゆるされたという喜びからくる、従っていく十字架です。では十字架を負うとはどういうことなのでしょう。この祈りから、一つになること、気の合った者同士が一つになることはやさしいでしょう。意見の合わない者がひとつになるには、自分が十字架を負わなければありえないのです。私が私であればみな孤立してしまいます。私が私でなくならなければ一つになることはできないのです。
わたしたちは独りで闘っているのではありません。どんなに苦しみを背負ったときでも、イエスがわたしたちのためにとりなしの祈りをしてくださることを忘れてはならないのです。この牧会の祈りはわたしたちに無限の勇気と慰めを与えてくれます。十字架が人生の目標であるとして、わたしたちが従っていくとき、天においてイエスがとりなしの祈りをしていてくださいます。そこにわたしたちの生きていく強さがあります。
1節から5節に注目すると、特徴のある言葉が二つあります。一つは「栄光」(ドクサ)です。「栄光」(ドクサ)という言葉が5回使われています。「栄光」は、「賞賛、名誉、神の偉大さ(聖、義、愛)、輝き等」のことですけれども、ヨハネによる福音書の「栄光」はカナの婚礼における「奇跡」の意味をなします。もっと大事な点は、主イエスがご受難を経て十字架につくことを「栄光を受ける」ことと理解していることです。「栄光」は「十字架」と同意となっていきます。主は、十字架の死において神の栄光があらわされることを示しています。「十字架の死」と「復活」において神の栄光があらわされるのです。ここに、ヨハネ福音書の告白、メッセージがあります。
もう一つ注目したい言葉は、子の栄光によって弟子たちにもたらされる「永遠の命」です。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。イエスが与えてくださる永遠のいのちは、神と御子とを知る者たちが死後においてではなく、今、ここで持つことのできるいのちです。永遠のいのちとは、現在の現実です。
ここにおける鍵のことばは3節の「知る」です。信頼することによって体得する知識のことです。この意味において神と御子とを知ることが、永遠のいのちです。永遠のいのちとは、関係の概念です。したがって「知る」ことは必然的に具体的な行動として現れてきます。わたしたちは御子を通して御父を知るのですから、御子イエス・キリストを愛し、その戒めを守り、信仰の従順を持って生きていく時に、人は喜びと賛美と感謝の生活へと導かれていきます。
続いて主イエスは弟子たちのために祈ります。「世から選んで私に与えてくださった人々に、私は御名を表しました」と6節のイエスの祈りは、弟子たちに神とイエスとの関係を想起させます。弟子たちは、世から選び出された者であるということです。この世から召し出されている。最初、弟子たちのいた場所は、他の人々と同じ場所です。そこから弟子として選び出されていく。出発点です。弟子たちはイエスの教えを聞き、それを信じ、守ってきました。そしてイエスのことばとわざとが御父から出ていることも知るに至っています。その弟子たちを残して去って行くイエスは、彼らが地上にあってその使命を十分に果たすことができ、それによって神のわざを前進できるようにと熱心に祈られました。
主イエスは、わたしたちのために、一所懸命に神に電話をかけるように祈ってくださっています。その祈りの中で、わたしたちはもう選ばれているのです。その電話のやり取りをしつつ、主イエスの手に、わたしたちの神がこの人たちを頼むとお渡しになってくださっている。承知しました、と言って主イエスが、わたしたちをその手に受け、十字架について死んでくださり、甦られた。この確かさの中に立たされていることを深い感謝をもって受け入れ、わたしたちは地上にあって、主からいただいた使命を果たすことを喜びとして歩んでいきたいと思います。祈ります。