天の国への招き
2025年2月16日
イザヤ書30:18~21、マタイによる福音書15:17~20
関 伸子牧師
主イエスは「私が来たのは律法や預言者を排しするためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、感性するためである」(マタイ5:17)と厳かに語り始めます。これ以降の特徴は、権威に満ちた「私」の登場にあります。「私は来た」はマタイに四回現れますが、そのいずれもがイエスに向けられた誤解を訂正するために使われます。たとえば第9章13節では、ファリサイ派の人々の誤った救済観、つまり清めの律法をきちんと守れる人が救われるとする考えを正すために、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と主は言われます。
「律法や預言者」は「預言者たちの律法」を意味します。律法は預言者たちによって与えられたからです。「この預言者たちの律法」とは旧約聖書全体のことであり、旧約聖書とは、言わば神が言葉となり、その言葉を神の「律法」として「預言者たち」を通して人間に与えたものです。例えば、旧約聖書での最大の預言者はモーセであり、そのモーセを通して最も重要な戒め、十戒が人々に与えられました。
この種の誤解は、二つの、正反対のグループから生じたものかもしれません。一つやユダヤ教からであり、他は初代教会内部からです。律法を重視するユダヤ教がイエスの態度に不満を持ち、「イエスは律法を破棄した不信仰者」と攻撃したであろうことは容易に察することができます。他方、全く逆の立場からもこの誤解は生じました。パウロの手紙から明らかですけれど、初代教会内部には律法遵守を救いの条件と考える保守派の他に、律法はイエスによって無用とされたのだから、それを捨て去ることができるとするグループも存在しました。マタイは二方面からの誤解を知り、それを正すために17節から20節を書いたのです。
律法の本来の精神は、それによって神を神とし、律法に現わされた神様のみ心を知ることにあります。神様はいつも人のことを思いやっておられます。イエスがこの世に来られたということは、言い換えると、神の言葉が肉となったということであり、旧約時代において言葉となった神が、新約時代においては肉となり、この世で具体的に神の計画が実現していくことを意味します。
人の救いはマタイの場合も、イエスの血のあがないにかかっています(20:28)。だからと言って、行いはどうでもよい、というのではありません。イエスのあがないにより、罪の赦しを受けた私たちは新たな戒めを、身を持って実行したイエスからの招きとして受け止めたいと思います。
主イエスが天地のことを「確かに(アーメン)」と言えるのは、イエスが天地万物を造った神の子であり、その創造に参加し、現在に至るまでご自分の力ある言葉によって天地万物を支えているからです。「一点」の「点(イオータ)」とは、旧約聖書の言語であるヘブライ語で最小の文字(ヨード)に相当し、「一画」の「画(ケライア)」とは、ヘブライ語の文字の角を指し、これがとがっているかいないかによって別の文字になることもあるのです。
つまり、イエスが、父なる神と共にこの天地を保持することを最終的にやめるまで、イエスは律法をことごとく実演する。イエスによって、律法のすべてが実現されてから、天地は同じイエスによって終曲へと導かれる。しかし、律法は、イエスの隣人愛によって完全に実現されることを考慮すると、天地はいつ消え去ってもおかしくない状態にあるのです。神の前で、いつも劣等生でしかないような私たちを立ち直らせるために、イエス・キリストは生き、死なれたのです。このイエス・キリストの生涯を一言で言うとすれば、「愛」という言葉に尽きるのです。「愛は律法を全うする」(ローマ13:10)とパウロは語りました。
主イエスは山の上で教えを聞く人々に、「律法学者やファリサイ派の人々にまさる義」を求めます。「義」とは、神との関係を大事にする姿勢、すなわち、戒めに込められた神の思いを聞き取り、その声に応じた行動をとることを表します。律法主義は、律法の背後にいる生ける神を忘れています。すべての良い業は、このお方の愛から流れでてくるのです。それゆえ、この愛の主を大きくする行いが、「とっとすぐれた義」であり、自分を大きくする行いは、劣った義、自分の義にすぎないのです。主イエスは戒めに込められた本来の意味に目を向けるように招き、一つ一つの掟に響く天の国の姿を示します。
17節の主の言葉を受け入れることは、20節の言葉を受け入れることです。このみ言葉を聞いて聞かなかったことにするか。それが、私たちに今問われているのです。信仰に生きるということは、このような主イエスの言葉を、自分に与えられている喜びの言葉、生きる喜びを与えてくださる言葉として読むことができるかどうか、そのことにかかっていると言えます。
神の国、神の言葉、神の子は、外から来られたのです。私たちの外からです。律法の外からです。律法の根源である神からです。律法、それは神が与えられたものです。主イエス・キリストが、明らかにしてくださった神のあわれみの光の中で、神の義の光の中で、私たちの新しい義に生きる生活が始まります。この光の中で、ファリサイ派の人々、律法学者にまさる義に生き始めるのです。主の教えを共に聞くきょうだいたちと共に、主イエスの愛に生かされ、神からいただいた生き生きとしたいのちを大切に歩む者でありたいと思います。祈ります。